たとえば大学の講義でいきなり議論の場に放り込まれた大学生が、みな、堂々と自分の意見を言えるわけではありません。また最近では、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)に挑むようなことはせず、波風を立てることを忌避する風潮も、学生の間には広がっているように思われます。

 ビジネスや政治の舞台でも、場を和ませるためのアイスブレーキングを最初に入れたり、まず信頼関係を構築することに努めたりと、いろいろな試行錯誤をして初めて自由闊達な議論が可能になる。この点に大した国際的な違いはありません。

「事実確認」だけのレポートでは
自分の意見は生まれない

 では改めて、「自分の頭で考え、自分なりの意見をもつ」ということについて考えていきましょう。

 まず「意見」とは何でしょうか。ひとことでいえば、それは「よき思考」の成果です。

 この点で私が非常に口惜しく思っているのは、日本の大学で出されているレポート課題は、「事実確認をせよ」というものが大半なのではないか、ということです。

 というのも、レポートを書くことは本来、自分の頭で考え、自分なりの意見をもつ格好のトレーニングになるはずなのに、事実確認に終始していては、それがほとんど成り立たないからです。

 事実確認とは、いうまでもなく「こういうことがあり、その影響で、こういうことになりました」というように、起こったことを克明に書き記すことです。

 事実確認それ自体の重要性を否定するものではありませんが、事実確認自体で満足していては、その先に進むことができません。何よりも事実確認を丁寧に行うことの価値や意味が分からないままで終わってしまいがちです。「調べてまとめてみよう」という課題が一定の効果を発揮するのは、小学生の宿題まででしょう。

 大人になったら、一番重要なのは、事実を踏まえて「自分はどう考えるか」です。事実確認は本来、レポートを作成するために必要な最低限の準備であり、ものを考える土台に過ぎません。

 それにしても、なぜ日本では、学生に「事実確認」をさせておしまいになりがちなのでしょうか。

 おそらく、それは課題を出す側が「ポジション・テイキング=悪」と捉えているからだと私は見ています。