意識的か無意識的なのかはわかりませんが、ある立場からの予断をもってものを考えたり、意見を言ったりすることを、よくないと思っている。だから意見表明ではなく、誰から見ても中立的でいられる事実確認を学生に求めるのでしょう。

 加えて、事実確認と違って意見は評価するのが大変だという、課題を出す側の手続き的な都合も関係しているのかもしれません。

 事実確認は単純に「正誤」で採点しようと思えばできますが、意見表明は、「ロジカルであるか」「妥当性のある知識、情報に基づいているか」といった点で評価する必要があります。

 つまり「私はこのように考えました」という答案には「正誤」の明確な基準がないため、採点するほうは機械的に作業できず、それなりに時間を割きながら考えなくてはいけないのです。

 しかし、事実確認は思考ではありません。思考でない以上、いくら事実確認をしても思考力は磨かれないし、その成果である自分の意見をもてるようにもなりません。

 つまり自分の頭で考え、意見をもてるようになるには、「間違えている可能性」はいったん置いて、ポジション・テイキングをしてみること。まず1つのポジションに立ってみないことには、何も始まらないわけです。

 ポジション・テイキングは思考の終着点ではなく、出発点と捉えるといいでしょう。

自分の意見をつくる
基本のトレーニング法

 ひょっとしたら日本人は、意見を形成するトレーニング機会に乏しいぶん、意見をもつこと自体を、何か大きなことだと構えている人が多いのではないでしょうか。

「意見に対する批判」を「人格(存在)否定」と捉えがちな精神的土壌があるために、自分が意見を言うことで自分が傷ついたり、誰かを傷つけたりすることを、過度に恐れているようにも思えます。

 いずれにせよ、もっと柔軟に考えていいのです。

 ある1つの意見をもったら、生涯、それを貫かなくてはいけないわけではありません。

 たとえば東日本大震災での福島第一原発事故の直後には「反原発」の立場をとっていた人が、ロシアによるウクライナ侵攻の影響で、世界的にエネルギー価格が高騰するなか、「原発再稼働賛成」の立場に回ったとします。

 これは、まったく不誠実でも理不尽でもないと考えます。判断基準があれば、状況の変化に応じて、あるいは新たに得た知識や情報をもとに意見は変わって当然なのです。