キービジュアルPhoto by Yukari Morishita

ビル・ゲイツ、デビッド・ベッカム、ダライ・ラマ、オードリー・タンなどの同時通訳を務めてきた田中慶子さんが、日常やビジネスで役立つ「生きた英語」をやさしく解説。今回は、11年前にロンドンに移住したギタリストの布袋寅泰さんと対談。一からスタートした布袋さんのチャレンジ、慣れ親しんだ日本とは異なる文化での生活やコミュニケーションにおける苦労やサバイバル術――。前編に続く後編では、音楽に対するプロフェッショナリズム、アーティストとしての生き方、50歳からの新しいチャレンジを成功させるための秘訣をお聞きしました。(文:奥田由意、編集:ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)

50歳を目前にロンドンへ移住
「チャレンジ」と「チェンジ」

田中慶子氏(以下、田中) 若い人から相談を受けることがあるのですが、「夢を語ることが恥ずかしい」「何かにチャレンジをしたい気持ちはあるけれど、きっかけがない」「何から始めたらいいかわからない」、こういった方が今、多いんです。

 布袋さんは、2012年、50歳を目前にロンドンに拠点を移されました。そのときのチャレンジはどういう思いだったのでしょうか?

布袋氏プロフィール布袋寅泰(ほてい・ともやす)
1962年生まれ。ギタリスト。ロックバンドBOØWYのギタリストとしてデビュー、1988年にアルバム『GUITARHYTHM』でソロデビューを果たす。プロデューサー、作詞・作曲家としても活躍。クエンティン・タランティーノ監督『KILL BILL』に「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY(新・仁義なき戦いのテーマ)」を提供し世界的にも大きな評価を受けている。2014年にはThe Rolling Stonesと東京ドームで共演を果たした。 今年(2023年)、自身の誕生日である2月1日にライブBlu-ray&DVD『Still Dreamin' Tour』をリリース。

布袋寅泰氏(以下、布袋) そこまで大げさなものではありませんが、チャレンジというよりチェンジ――、「変化」を求めていました。

 2011年の東日本大震災で、当たり前だった日常が当たり前でなくなるということを強く感じましたし、音楽表現もそれまでがんばってきましたが、どことなく行き詰まりを感じていました。

 子どもは10歳、夫婦はお互い50代を目前にして、ここはひとつ、思い切って、自分たちが進むためのモチベーションとなるものを探してみたい、長年の夢である、世界をフィールドに腕試しをしてみたい、そう思い立ってロンドンへ拠点を移したんです。

 (妻の今井)美樹さんには、結婚するときに「いずれは海外でチャレンジしたいと思っている。ついて来てくれるか?」と、偉そうですが、そう伝えてあり、ぜひと言ってくれました。それがまさか50代を前にしたタイミングでいきなりくるとは思っていなかったもしれません。それでも承諾してくれました。まあ、ノーとは言えない状況だったかもしれませんが……(笑)。

田中 その後、今井美樹さんが娘さんに、「私はパパと約束をしていたので、ロンドンへ行きたいと思うけれど、あなたはどうする?」とお聞きになったのですよね。

布袋 娘の意思も大切ですからね。美樹さんも娘も、日本とは言葉も教育環境もまったく違う中で、大変な思いもしたと思いますが、今では楽しんでくれているようで安心しました。

 娘はすっかりロンドンっ子になって、大学にも通っています。今では、英語を使ったほうが自分が伝えたいことをうまく表現できるようになっています。(日本とイギリスの)2つの文化を感じることができて幸せ、と言ってくれていてうれしいですね。

 生活がガラリと変わるので大きな決断でしたが、あのときの決断がなければ、今の自分はなかったと思います。東京にいても、それまで積み上げてきたものでできてしまうことがあると思います。でも、変化を求めて思い切って挑戦することで、新しい景色を見ることができた。

田中 「チャレンジ/チェンジ」は、「慣れ親しんだ場所から飛び出してみる」という意味合いも大きかったんでしょうか?

布袋 そうですね。でもやはり日本と世界は遠いですよ。日本から出てもまだ日本にいるというか。言葉の問題もあると思いますが、心がなかなか日本を出ようとしないんです。出る必要がない時期もあったと思いますが。

 僕はありがたいことに、日本では多くの人に知られていますし、イギリスの音楽業界でも「日本で成功したミュージシャン」として捉えられている。でも、せっかく新しいものを求めて海外へ行くので、アドバンテージがあるのは嫌だったんですね。

田中 そうなんですか?

布袋 イギリスの、骨のあるロックがどのようなところから生まれるのか、実際に体験してみたかったんです。そのためには、それまで築いてきたキャリアを一度、捨てる必要があった。

 面識のない音楽プロデューサーの家に、ギターを抱えて訪問し、雨に打たれながらドアをノックして、自己紹介から始めたこともありました。