ここで、千疋屋の歴史にも触れておきたい。江戸時代後期、武蔵国埼玉郡千疋村(現在の埼玉県越谷市)で、槍術の道場を開いていたのが、千疋屋の創業者である大島弁蔵氏。

 当時、越谷から江戸に通じる搬水路があり、千疋村界隈で採れる農作物を、夜に出発して早朝には盛り場の葺屋町(ふきやちょう)(現在の日本橋人形町)に届く船便で運べば喜んでもらえるのではと考えた。そして、葺屋町に「水くわし安うり処」(水くわしとは水菓子、甘い果物の意味)の看板を掲げ、露店を構えたという。ここに今日の千疋屋が産声を上げた。1834(天保5)年のことだ。

 明治時代になると、日本も近代化により、欧米諸国の文化を積極的に取り入れたため、衣食住にも西洋化が訪れた。

 この流れの中で、千疋屋は「気軽に西洋風の食事やデザートを楽しめる店」をコンセプトにした「果物食堂」を1868(明治元)年にオープン。これが、後のフルーツパーラーである。果物食堂では、苺ミルクやフルーツパンチ、アイスクリームソーダやショートケーキ、フルーツサンドなどをメニューにしていた。

 1881(明治14)年には、中橋広小路店(現在の京橋千疋屋)が誕生。続いて、1894(明治27)年、新橋千疋屋(現在の銀座千疋屋)を出店した。それらの店舗は、当時の日本橋本店から見える範囲にあったという。視界を遮る高い建物がなかった当時の景色は、いまではあり得ない光景だろう。

 筆者が大島社長に、フルーツサンドは、熟して販売しにくくなってきたフルーツを売るために、クリームにサンドしたのでは?と伺ってみると、その可能性はあるということだった。

 当時、贈答用の高級なフルーツの横で販売されていたハイカラなフルーツサンドもお土産に最適な商品だったに違いない。

 また、千疋屋同様、高級フルーツ販売の老舗である新宿高野では1926(大正15)年にフルーツパーラーを開店したが、そのメニューには初めからフルーツサンドがあったという。

 その他、フルーツサンドは京都・祇園の喫茶店や果物店、フルーツパーラーが発祥という説もある。いまでは、京都の喫茶店で、フルーツサンドは定番メニューになっている。

 このように、日本発祥と言われる人気のフルーツサンドが永き時を経て、令和時代に世界的に知られるスイーツになったのだった。