現在の野球界がデータ至上主義にあるのは間違いない。
けれども、わたしはこう考える。例えば、「80パーセントの確率でここに打つ」というデータが出ていたとしても、そのバッターがたまたま故障をしていて、本来のパフォーマンスを発揮できないこともあるかもしれない。利き腕を故障していて、どこかをかばいながら打つことで、データにない20パーセントの結果となる可能性もある。
仮に、その20パーセントの結果となったとき、選手はどう感じるだろうか?
もしわたしが当事者となったとしたら、「ベンチの指示にしたがった結果だから仕方ない」と考えるだろう。当然、ベンチから非難をされることもないだろう。自分はコーチの指示にしたがっただけなのだから。
あるいは、実際に打者の放った打球がベンチの指示どおりに飛んできたとしよう。ファンの人は気づかないだろうけれど、自分の意思で「ここに飛んでくるだろう」と心の準備をして守るときと、「指示されたからここで守ろう」と半信半疑で守っているときとでは、確実に最初の一歩目に違いが出る。
長年ショートにこだわり、「どうすれば守備が上手になるのか?」と考え続け、「どうすれば年齢による衰えをカバーできるのか?」と模索し続けてきた身からすれば、いまのプロ野球界には少し寂しさを覚える。「寂しい」というのは適切な言葉ではないかもしれないが、率直にいって物足りなさを覚えてしまう。
イチローさんが、引退会見の席上で、「頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある」と発言していたが、わたしもまさに同感である。
頭を使わずに、単に身体能力だけで結果が出てしまう野球には、少しも魅力を感じない。仮に成功したとしても、自分の頭を使わずに、ベンチの指示で結果がよかったのならば、その喜びは半減するのではないか?