将来の幕閣入りも期待された逸材だった
林忠崇は幕末の嘉永元年(1848年)7月28日、上総国請西藩(現在の千葉県木更津市請西)の藩主・林忠旭の五男として誕生した。請西藩は石高で言えばたかだか一万石余りだったが、江戸時代の林家は徳川家とは格別に縁が深い家柄として知られていた。
請西藩2代目藩主・林忠交(ただかた)(忠旭の弟)の急死により、忠崇が3代目藩主になったのは慶応3年(1867年)6月、20歳のときだった。忠崇という人は幼少期から文武の道に励んでおり、このころには近い将来の幕閣入りも期待されるほどの凛々しく英邁(えいまい)な君主に成長していた。まさに、忠崇の前途は洋々としているように見えた。
ところが、その年の10月になり、忠崇の人生の歯車を狂わせる大きな出来事が京都から飛び込んでくる。将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したという報せだった(「大政奉還」)。
さらに、年が明けると新政府軍と旧幕府軍との間で武力衝突「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕軍が敗退したことを知ると、忠崇は「徳川家の御厚恩に報いるのは今このときぞ」と旧幕軍支持の決意を家臣一同に表明し、藩を挙げて洋式の武器を調達したり洋式調練に汗を流したりした。
やがて、そんな忠崇を慕い、鳥羽・伏見の戦いを潜(くぐ)り抜けてきた佐幕・抗戦派の部隊「遊撃隊」が請西藩にやって来る。当時、隊の中心を成していたのは幕臣の伊庭八郎(いばはちろう)と人見勝太郎(ひとみかつたろう)であった。
忠崇は、伊庭や人見らから、徳川家の再興のために力を貸してほしいと懇願され、体の中を流れる若い血潮が滾ったに違いない。忠崇はその申し出を快諾すると、周囲を驚かせる思わぬ行動に出る。
領民を戦禍に巻き込まないために
忠崇は家臣一同を集めたうえで、「吾は今後、藩を脱し、遊撃隊と行動を共にする」と宣言したのである。藩主自ら脱藩するなど、徳川幕府始まって以来の椿事(ちんじ)であった。しかしこれは、忠崇が考え抜いた末に出した結論だった。
遊撃隊を迎え入れたうえで藩を挙げて新政府軍に抵抗する姿勢を見せたとなれば、当然、領内に新政府軍が押し寄せ、領民が被る災厄は計り知れないものになるだろう。それを回避するために忠崇は自ら藩を脱しようとしたのである。