俳句はなぜ深い?

 俳句とは端的にいえば、具体的なものを観察し、そこに本質を洞察する文芸です。私の好きな俳人に、加藤楸邨(しゅうそん)という人がいますが、この人の句に、「人間をやめるとすれば冬の鵙(もず)」というものがあります。人間をやめるとするなら、冬の鵙になりたいと詠(うた)ったちょっと面白い句ですが、「自分だったら人間をやめるとすれば、何になりたいだろうか」と、つい誰もが考えてしまう魅力的な句です。

 これも、冬の鵙という具体的なものを挙げながら、鵙の孤高なさまと、それと対照的な人の世の本質のようなものが表現されているから「深さ」を私たちは感じるのです。

 松尾芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」という句も、秋が深まり、隣の人は何をしているだろうか、と具体的に述べているだけですが、そこには、冬間近の晩秋特有の寂しさや人恋しさといった本質が表現されています。

深い言葉にある共通点

 ここまで例に挙げてきたのは、哲学者の言葉や、著名な俳人の句ですから深いのが当然だとみなさんは思われるでしょう。

 しかし、そこにはどれも共通した点があり、それこそが、「具体的かつ本質的」という点になります。

 このシンプルでありながらものごとの本質を突いているという部分が、多くの人たちに「深いなぁ」と思わせ、また、心を揺り動かすのです。

 私たちも深い話をしたいと考えるなら、この「具体的かつ本質的」ということを常に意識して話をしようと心がけることが大切です。具体的な言及から、本質的な部分にまで話が展開できるよう考えてみてください。

 そうすれば、少なくとも「浅い話」に終わることは避けられますし、必ず話は深まっていくはずです。

 あるテーマについて見解を求められるという場面はよくありますが、そのようなときに極端に偏った意見を表明すると、それが「浅い意見」に終わることが往々にして起こってきます。

 これは私たちのまわりにある多くのものごとの本質が、白か黒かにスパッと切り分けられるようなものではないという現実があるからです。