人類がグレートジャーニーを
進めた理由

 そもそも、人類の歴史は思い込みの連続です。興味に対しては合理性を超えた思い込みがあるからこそ、ぼくらは世界を切り拓いていくことができました。

 人類の起源は、アフリカという温暖な土地とされています。ところが、いつの間にか気温が低く、作物も育ちにくい北の大地へも移っていきました。

 アフリカに住んでいたころの人類は、だれ1人として自分たちの末裔が北極圏の氷のなかで過ごすなんて、考えもしなかったでしょう。未開の地を切り拓き、地球全体に活動範囲を広げた人類のグレートジャーニーは、危険を乗り越え、それでもなおより良い世界を求めて移動するという、「かならずしも合理的とは言えない判断があったからこそ」実現したという側面があります。

 だからこそ、人類は「探索的である」というその特徴にこそ自信を持ち、それを最大限に助けてくれるAIと共生していくことが、良い組み合わせなのだと思います。

 具体的にAIと人類がタッグを組む場合のおもしろさを「アート」という領域で考えてみます。アートとはなにかというと、その時代までに創造され、蓄積された作品たちの流れの「半歩先」を提示することだと、ぼくは思っています。これまでの文脈をまったく無視したものでは決してなく、いままでの連綿と続くアート作品の流れに対して、半歩ずらしたものを打ち出し、鑑賞者が「そうきたか!」と気づく。その気づきによって鑑賞者が驚き、興奮し、ドーパミンという報酬を得て幸せな気持ちになり、作品が評価される。

 一方で、いままでの連綿と続くアート作品の流れのなかで半歩先ではないもの、つまり既存の作品の「それっぽいバリエーション」を生み出すのは、生成系AIの得意な領域です。

 人類のアート作品のように、隠れたコンセプトをしっかり織り込んだ作品をつくるといった創造性はありませんが、そういった部分を見い出し、選ぶのは人類の仕事だと考えれば、膨大なたたき台をつくる役割はかなりに適しています。お客さまからの依頼で作品を制作するような商業的なイラストなどをつくるときには、とてもいいかもしれません。

 現代でもすでに、特定の言葉(プロンプト)を入力するとAIが瞬時に絵を描いてくれます。音楽生成、文章生成、動画生成、そしてプログラミングなどでも同様です。