「リスキリング」という
言葉の違和感はどこからくるのか?
田中 私、最近はやりの「リスキリング」という言葉に抵抗があるんです。
「(寿命が延びて)人生が長くなり、今持っているスキルはいずれ通用しなくなるから、学び直そう」という理屈はわかります。でも、「リスキリング」って、あたかもある時点で学びが止まっていて、「よっこらしょ」と重い腰を上げて、学びを再開するようなイメージじゃないですか。
荒木 「スキリング期」があって、「リスキリング期」があってと、期間が分かれているように聞こえますよね。学びにはオン、オフのスイッチがあるわけではないし、切れ目はない。学びはもっと自由で柔軟で、どこでもどこからでも学んでしまえる。
田中 本来、学びはずっと継続しているもののはずです。荒木さんが本で伝えている「独学の地図」というメタファーも、「目標を決め、それを学んで終わり」ではなく、「学び続けてふと後ろを振り返ったら、それぞれの地図ができていた」ということですよね。
ところで、この本はどういう人に向けて書かれたのでしょうか?
荒木 「何かに縛られている人」を解放したいと思って書きました。
僕はビジネススクールの教員でもあるのですが、ビジネススクールには「カリキュラムマップ」というものがあるんです。
「縦軸」と「横軸」の2軸で構成されていて、例えば、「縦軸」を経営のナレッジの「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」という切り口で整理し、「横軸」はそれを学ぶ段階として「基礎」「応用」「実践」という区切りにするといったものです。このカリキュラムマップをどう作るかが、ビジネススクールの経営戦略の要になっています。
ただ、逆に、それが確立されると、教える側も教わる側も安心してしまい、それ以上の自由な学びを抑圧してしまうんですよ。小学校の「1時間目は国語」「2時間目は算数」のような科目と同じで、それだけを教えればいい、それだけを教わればいい、となってしまう。
田中 私は、学ぶというより、時間割を見て、明日の2時間目はつまらない算数なのでどうやってさぼろうかな、と考える子供でしたね……。
荒木 時間割というのは他者が決めるものです。でも、つまらない算数の授業中に、生徒である慶子さんが「どうしたらこの内容をおもしろく、皆に教えられるだろうか」と考えてみたとしたら、慶子さんはその時間に、算数ではなく「プレゼンテーション」を学んだことになる。
そのように、あるテーマをほかのテーマに読み替えてみると、いくらでも違うことを学ぶことができます。学ぶ内容は自分で定義し得るものですし、そうしない限り、他者の決めた強い言葉や決まりごとに流されてしまう。そのため、自分でオリジナルの「学びの地図を作るぞ」という構えを持ってほしいんです。
「今日は何を学ぶ」という未来形より、むしろ「何を学んだか」という過去形のことが、重要だということを伝えたいんです。
田中 教育機関においては、授業のカリキュラムもありますし、生徒に成績もつけなければならないですよね。そのような中、今のお考えをどのように講義に採り入れていらっしゃるのですか?