教える側が意図したことでなくても
教わる側に「差分」が生まれればいい

荒木 一般的には、「ひとりで学ぶ」ことが独学と思われていますが、僕は教室などで「皆で学ぶ」ことも独学の範疇と考えています。

 教師が「A」を教えた場合、生徒が40人いれば、各人の頭の中でそれぞれ独自の解釈がされており、40通りの学びが生まれる。だから、一人であろうが大勢と一緒であろうが、常に「独学」なんだというメッセージを込めました。

田中慶子さん田中慶子(たなか・けいこ)
同時通訳者。Art of Communication代表、大原美術館理事。ダライ・ラマ、テイラー・スウィフト、ビル・ゲイツ、デビッド・ベッカム、U2のBONO、オードリー・タン台湾IT担当大臣などの通訳を経験。「英語の壁を乗り越えて世界で活躍する日本人を一人でも増やすこと」をミッションに掲げ、英語コーチングやエクゼクティブコーチングも行う。著書に『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』(KADOKAWA)、『新しい英語力の教室 同時通訳者が教える本当に使える英語術』(インプレス)。Voicy「田中慶子の夢を叶える英語術」を定期的に配信中

田中 「コミュニケーションは受け手が決める」ということと似ていますね。同じ内容の話を聞いても、それを聞く人のバックグラウンドや経験によって、受けるものは千差万別ですものね。

荒木 人間はもともと、教える側が意図したことと違うものを勝手に学んでしまう生き物です。

 先日、講義でマーケティングを教えていたら、ある生徒が「ああ、僕は自分のポジショニングが確立できていなかったから、あのときフラれてしまったのか!」と言ったんですよ(笑)。

田中 それ、最高ですね(笑)。本質を学んだということでしょう。

荒木 著書の中で「すべての経験は学びになり得る。人によっていろいろな現実が立ち現れる」と書きましたが、その人のそれまでの人生があり、それを下地にして、初めて「何か」が立ち現れることこそが、学びなんです。

田中 その生徒さんは、荒木さんの講義内容の本質を学び取って、自身の恋愛経験に適用した。だとしたら、その人はマーケティングでも何にでもその教えを当てはめられるはずですね。本当の学びには深さがあって、その深い部分を理解してさえいれば、さまざまなことに応用できるのだと思います。

荒木 教える側が意図したことでなくても、「話を聞く前」と「話を聞いた後」で、教わる側に差分が生まれればいい。教える側が「いや、そういうことを教えたかったわけじゃない」と押し付けるのが一番よくないんです。そんな権威主義的な教育の場は窮屈ですよね。

おふたり

田中 以前、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の教育部門長を務めていたアメリア・アレナス氏の通訳を担当したとき、「アート」の定義について、「ある作品を見たときに、人によって(その作品の)解釈が違うものがアート」だという話をされていて、なるほどと思ったことがあるんです。

荒木 サンフランシスコ近代美術館で、実験で空きスペースに眼鏡を置いてみたところ、来場者がそれをアートと思って、写真を撮ったり、さまざまに解釈したりする人が続出したという話があります。何だってアートになり得るんですね。まさに「人によっていろいろな現実が立ち現れる」んです。