ターミネーターにはなれないパパたち
仲良くなるパパたちは「クラス単位」?
例えば、ママたちは、「子どものお迎え」が主たる目的であっても、その場で他者との輪を広げて、おしゃべりをしている場合が多い。一方、パパたちは「我が子を送迎する」という任務を遂行する以外に興味がないターミネーターのような状態になっているので、ずっと沈黙しているのである。
しかし前述の通り、妙に気まずい空気が流れることがある。そこにターミネーターが2体いるだけなら気まずい空気は生まれないはずなのに…。
パパ2人で気まずくなるのは、パパたちがターミネーターでないことの表れであり、そこにパパたちの情緒、魂の脈動がある。
パパは無言・没交渉を選択しつつまだ迷っている。それは「やっぱりよそのパパとも仲良くしたいような…した方がいいのかな…」というかわいらしい葛藤である。
パパはよそのパパに対して、「育児に取り組む同志」として強い共感を覚えている。しかし、それを表に出すようなことはしない。
恥ずかしいし、相手の迷惑になるかもしれないし、育児という主目的に直接は関連しない事柄だからである。「声をかけて握手したい衝動」と「沈黙した方がお互いにいいよね」という二つの思いの間でまだ揺れているので、パパ2人が同じ場所にいることになると、気まずい空気が生まれるのである。
しかし筆者は、これを書くうちにそのままでいいのではないかと思うようになった。必ずしも言葉にしなくても伝わるものはある。相手のパパに対して、愛に彩られたエールを無言の念波で送ることができればそれで十分ではないか、という気がしてきたのであった。
むろん、どこかで話しかけて関係を築くのも素晴らしいと思う。勇気やエネルギーを発揮できるパパにはぜひおすすめしたいところである。
なお、パパたちが打ち解けるケースも何例か見聞きしたことがあるが、これはほぼ、一対一ではなく、「クラス単位で仲良くなった結果、パパ同士が深く結びついた」という経過をたどっている。
そういえば筆者が住む郊外の住宅街にはお年寄りが多いが、男性陣は皆仲良しに見える。この人たちは「町内を良くしていこう」という共通の目的のもとに手を取り合えたようなので、育児に取り組むパパたちも、何かひとつ目的を共有することがあったら一気に仲良くなるかもしれない。
「我が子が第一」と考えて取り組む育児でも、それに取り組むパパ・ママは当然人間であり、労力に見合ういたわりがあるに越したことはない。
ザ・プレミアム・モルツのCMでは夫婦がビールで乾杯するシーンで締めくくられたが、気の持ちようによってはパパ同士のあの気まずい沈黙も、「お互いへの無言のエールの時間」として楽しむことができるかもしれない。筆者自身も明日から、その沈黙を全力で満喫したい所存である。