いま、イェール大学の学生たちがこぞって詰めかけ、夢中で学んでいる一つの講義がある。その名も「シンキング(Thinking)」。AIとは異なる「人間の思考」ならではの特性を存分に学べる「思考教室」だ。このたびその内容をもとにまとめた書籍、『イェール大学集中講義 思考の穴――わかっていても間違える全人類のための思考法』が刊行された。世界トップクラスの知的エリートたちが、理性の「穴」を埋めるために殺到するその内容とは? 同書から特別に一部を公開する。
とある診察の光景
ある日の夕方、私が研究室で仕事をしていると、ビスマ(仮名)から電話がかかってきた。ビスマは私のかつての教え子で、「シンキング」を受講した学生のなかでもひときわ優秀だった。
電話口ではずいぶんと取り乱している様子だったが、私は彼女がそう簡単に取り乱すタイプではないと知っているので、仕事の手を止めて話に耳を傾けた。
ビスマは、ある医師の診察を初めて受けてきたところだと話し始めた。
彼女は高校生のときから謎の体調不良に苦しめられていた。食べ物を胃にとどめておくことができないのだ。
その症状は朝に顕著で、吐き気がひどすぎて倒れることもあった。そのため、彼女はとても痩せていた。病院で検査し、もっとも疑いの強かったセリアック病、潰瘍、胃がんのどれでもないことは判明したが、原因はわからなかった。
今回、その初めての医師の診察を受けたのは、ネパールとヨルダンでの学期留学に出発する前に、吐き気を抑える薬の処方箋を新たに出してもらう必要があったからだという。
医師は、症状を説明するビスマの話に丁寧に耳を傾けていた。そして、彼女にこう尋ねた。
「あなたは好きで吐いているんですか?」
医師が拒食症を疑っていることは明白だった。そういう疑いをかけられたことにビスマは意表を突かれ、その後に続いた会話を正確には覚えていなかったが、およそ次のような感じだったらしい。
医師(「自分では自分の問題がわからないのだろう」と思いながら):では、食べることは楽しいですか?
ビスマ(慢性的な消化トラブルに苦しみながら食事を楽しめる人間がいるはずないだろうと思いながら):いいえ。
医師(「やはりそうか。さあ、核心に迫っていくぞ」と思いながら):死にたいと思うことは?
ビスマ:ありません!
この時点で、ビスマは怒りのあまり診察室を出ていった。
そんな彼女の反応を、医師はヒステリーによる拒絶だと解釈した。
自分の診断は正しかったとさらに確信を強め、ビスマが診察室から飛び出したのは、自分が抱える問題から逃げ出したかったからだと思い込んだ。そして彼女を追いかけて待合室で見つけると、ほかの患者がいる前で彼女に向かって叫んだ。
「診察室に戻りなさい! あなたは深刻な病気なんですよ!」
ビスマはそれを無視して車に駆け込み、私に電話をかけてきたのだ。
「自分の考えを確認する質問」だけをする医師
ビスマはターム留学に参加したが、パンデミックのせいで学期の途中で中止になった。
海外に滞在していた2か月のあいだ、彼女から不調の症状は消えていた。
吐き気と体重減少に襲われていた原因について、はっきりしたことはわからないが、ビスマはいまはこう考えている。アメリカで食べていた何かに対してアレルギーがあり、その何かから離れて暮らしていたあいだだけ、症状が治まっていたのではないか。
いずれにせよ、これだけははっきりしている。ビスマが拒食症に苦しんでいたことは一度もない。
もっとも、いまでこそ拒食症という診断は間違いだったとわかるが、医師がその診断が正しいと強く確信した理由もよくわかる。
ビスマはひどく痩せていて、彼女が訴える症状が表れる拒食症以外の主な病気には該当しないとすでに判明していた。さらに、彼女は食べることは楽しくないと答え、心理的な問題を抱えている可能性に対し、尋常ではなく強い否定の態度を示した。
とはいえこの医師の問題は、そこで、「自らの疑いを確かめるための質問」しか投げかけなかったことにある。医師の聞き方は、どんな答えが返ってきても自説が覆らない聞き方だったのだ。
(本稿は書籍『イェール大学集中講義 思考の穴――わかっていても間違える全人類のための思考法』から一部を抜粋して掲載しています)