皆がESG投資家になる。
――曖昧な形であったからかもしれませんが、結果的に、前述の9つのポイントの(1)の通り「ESG投資は主流となった」のですね。
アナン総長のレポートが出てから十数年間、世界情勢は変わっていきました。2015年のCOP(国連気候変動枠組条約締約国会議)パリ協定合意やSDGs(持続可能な開発目標)の国連採択、2019年の米国ラウンドテーブルによるステークホルダー重視の宣言など、世界のリーダーが社会課題の深刻さを認めたり、企業経営のあり方を見直したりするイベントが続きました。
その間、気候変動によるといわれる災害が多発し、全世界で危機が顕在化しました。また、人権尊重や格差解消を促す活動も活発化しています。そうした課題解決に意欲が高いZ世代などの若者の発言力が増えていることなど、多くの変化があります。
そして今日、企業の経営において、ESGに関するリスクは対応しなければならないという流れになっているのです。必然的に、投資家においても、「長期的視点をもって、ESG等の非財務ファクターを投資判断に織り込み、リスクをマネージしつつリターン向上をめざす」投資を行うという、前述したESG投資の定義の通りの行動が主流になっています。
本書の第10章「ファイナンス理論から見たESG投資」では、理論的にもESG投資を詰めていきましたが、最後を「皆がESG投資家になる」という予測で結んでいます。
――どういうことですか。
その理詰めを話すととても長くなりますので、本書を読んでいただければと思いますが、結論を言えば、中長期的な投資では、財務情報に加えて、ESGファクターを含む非財務情報の重要性が増し、今後、ESG投資がそれを配慮しない投資に比べて、リスク対比リターンが高いことが判明するのであれば、市場はそれを受け入れていくということです。すると、ESG投資が標準になり、皆がESG投資家になる、のです。
――実際、ESG投資は、他の投資スタイルに比べて超過リターンを上げているのでしょうか。
現時点では、データが不十分で明確には言い切れないと私は思います。本書では、ESG投資がそれ以外の投資よりもリスク対比リターンがあるという先行研究をいくつか示すとともに、私が世界の機関投資家に独自にヒアリングしたところでは「80%がプラスでもマイナスでもない」「15%が若干プラス」だった、という調査結果を示しています。現状では、実証研究をする上でも、ESG投資の定義が曖昧なので、ESG投資とそうでない投資の比較が難しいのです。
本書で挙げた先行研究の代表的なものの一つに、この分野で著名なジョージ・セラフェイム氏(ハーバード・ビジネス・スクール教授)らの論文がありますが、そこではIFRS財団(国際会計基準〈IFRS〉の策定を担う民間の非営利組織)のSASB(サステナビリティ会計基準審議会、現VRF)が作った業界別のマテリアリティマップが使われています。
――マテリアリティマップとは、それぞれの業界で、リスク対比リターンへの影響度が高いファクター(要素)を選定したものですね。
鉄鋼会社やセメント会社であれば温室効果ガス排出量、銀行であればサイバーセキュリティといったように、業界ごとに異なるリスク対比リターンに与える影響が大きいファクターについて、当該企業は注力すべきです。
ESG等非財務ファクターの企業価値に与える影響を加味して投資判断を行うという、本書で定義したESG投資のように、最終目的はリスク対比リターンの最大化の一つ(シングル)で、その視点からのESG開示基準がシングルマテリアリティと呼ばれています。
ちなみに、上述のリスク対比リターンに加えて、社会課題の解決に寄与するインパクトも狙う投資が「インパクト投資」です。投資目的が2つあるので、そのような投資に向けてのデータ開示基準はダブルマテリアリティと呼ばれています。ただし、アナン国連事務総長のレポート作成過程の話で前述した通り、この点は、リスク対比リターンの最大化に責任を持つ機関投資家には受け入れ難いものです。
――昨今、米国では、ESG投資が政争の材料になっていますね。
残念なことです。ESG投資に課題があるのならば、論理的に議論して改善していくべきです。そういう意味でも、議論のベースになる定義の確定は必要なのです。米国の有力な機関投資家には、ESG投資をサステナブル投資と言い換えて、政争の火の粉をかぶることを回避しようとしています。ただし、言い換えても内容は一緒だと、実質的には何も変化がない、ともいえるかと思います。
繰り返すになりますが、本書で提示したESG投資の定義が世界の主要な投資家のコンセンサスになっているので、企業はこれに基づくシングルマテリアリティのESGデータ開示が求められていて、投資家は企業の財務ファクターと総合して、投資判断をしているのです。