オール阪神氏、
激務の30代でもこの仕事を受けた理由
阪神氏は半農半漁の家に育ち、生まれ育った大阪・泉大津市近隣の海で釣りをして過ごした筋金入りの釣り好きだ。阪神氏は、この番組への思い入れは格別だったと話してくれた。
「それまでも、芸人としてお仕事はたくさんしていましたが、気持ちの上では『はい、次はこの仕事ですね』というぐらいのテンションでやることが多かった。でも、『ビッグ・フィッシング』は別でしたね。根っからの釣り好きですから、『いつか司会をやりたいな』と思った番組だったので、抜擢されたときはうれしかったですよ。しかも、ピンとしては初めての冠番組ですから余計に意気込んでました」
その思いから、阪神氏は「最初はずっと視聴率のことを気にしていました」と語るほど、熱意を持っており、番組づくりにも積極的に協力していたという。阪神氏が続ける。
「当時は、30代前半で思いっきり仕事をしていた時期なので、なかなかお休みをもらえないんです。だから、ここのスタッフの方に『ロケを入れてください』と頼んでね(笑)。それやったら、公然と釣りを楽しめるじゃないですか。良い意味で、公私混同しながら番組づくりをしていましたね。今も、そういう部分もあります」
その後番組は勢いを増し、釣り場を次々と開拓する企画や、コラボ企画などにも取り組んでいく。小松氏が当時を思い出す。
「一番覚えているのが、『世紀末デスマッチ』という企画かなぁ。番組の中で、次に収録するロケ場所を発表して、今井さんが『80センチの真鯛を釣ります!』とか『1日に150匹のキスを釣ります!』とか宣言するんです。それで、その模様や結果を番組と誌面で発表するというのもやりました。あるとき、本当に80センチの真鯛を釣ったんで盛り上がりましたよ!」
この企画は、映像と活字の両面からファンを引き付け、番組を盛り上げる大きな原動力になったという。
80年代から90年代にかけ、釣り番組として順調に存在感を示す中で、少しずつ陰りが見え始める。放送時間は1時間から30分に縮小され、番組のスポンサー数も減少していった。その状況で、いかにして番組は存続することができたのだろうか。