誕生パーティにレオナルド・ディカプリオがお祝いにやってきて、ステージの巨大なケーキからブリトニー・スピアーズが飛び出して「ハッピー・バースデイ」を歌ってくれる。これは夢ではなく、ジョー・ロウ(Jho Low)という中国系マレーシア人が2012年にラスベガスで行なったことだ。ロウはそのとき若干31歳だった。
ウォール・ストリート・ジャーナルの2人の記者トム・ライトとブラッドリー・ホープによる『国際金融詐欺師ジョー・ロウ マレーシア、ナジブ政権の腐敗を象徴する巨額汚職事件』(吉野弘人訳、パンローリング)は、「事実は小説より奇なり」というほかない事件の詳細を膨大な取材によって描いている。原題は“Billion Dollar Whale (10億ドルのクジラ)”。
ニューヨークなどの高級クラブでは、VIPルームで「ガールズ」と呼ばれるモデルをはべらせ、シャンパンを湯水のごとく注文して一晩で数千万円を散在する大物の顧客を“Whale(クジラ)”と呼ぶ。ロウは2000年代の一時期、世界中のクラブでもっとも有名な“Whale”だった。だがこの若者は、どのようにしてこれだけの富を手に入れたのだろうか。
マレーシアでは、欧米からは「民族差別政策」と批判される多数派のマレー人に対する優遇政策が行なわれている
ロウは1981年にマレーシア、ペナン島の華僑の家に3人きょうだいの末っ子として生まれた。祖父は1940年代に日本軍の占領とその後の国共内戦を逃れ、広東省からタイ南部へと移り、そこで鉄鉱石鉱山に投資して財を築いた。一家は1960年代にペナンに移住した。
父のラリーは1952年生まれで、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)とUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で学び、MBAを取得している。ロウ一家は一代で、マレーシアの華僑エリートの仲間入りをした。
ラリーは80年代にココア農場に投資して一家の財産のほとんどを失ってしまうが、商品価格が下落したとき、残ったわずかな資産で輸出用衣料品会社の株を購入し、この賭けが当たって1500万ドルの利益を得た。ラリーはこの資金でパーティ三昧の日々を送り、「あるパーティでは、スウェーデンのファッションモデルを飛行機でペナンまで呼び寄せた」というから、息子のロウは父親の放蕩三昧を見て育ったことになる。
マレーシアのエリートはみな、「植民地時代の領主」であるイギリスで教育を受けている。ロウも13歳でインターナショナルスクールに入学し、そこで国防大臣ナジブ・ラザクの義理の息子(再婚の妻ロスマ・マンソールの連れ子)であるリザ・アジズと友人になった。ナジブは「マレーシア発展の父」と呼ばれた第2代マレーシア首相アブドゥル・ラザクの長男で、第3代首相フセイン・オンの甥にあたる。
マレーシアは立憲君主国で、国王(アゴン)は13州のうち9州にいるスルタンの互選で選出される(実質的な輪番制)。ブルネイはもともとボルネオ島(マレーシア名はカリマンタン)北部の小さな州だったが、石油資源の利権を守るためにマレーシアと合流せずにイギリスの自治領になり、1984年にスルタンを国王とする独立国家になった。マレーシア各州のスルタンも同様に、現在でもその地域で強い影響力をもっている。
マレーシアは政治的には、スルタンの係累と、ラザク家のようなマレー人のエリートによって支配されていた。その一方で経済的には、他の東南アジア諸国と同様に華僑が財閥を形成している。
マレーシアはイギリス統治時代、中国やインドから労働者が集められたことで多民族化した。第二次世界大戦後に独立すると、経済的にゆたかな中国系と多数派のマレー人が対立し、1965年にシンガポールが分離する。しかしそれでも、人口構成で6割のマレー人は、中国系(3割)やインド系(1割)よりも貧しい暮らしを余儀なくされていた。
そこでアブドゥル・ラザクは、1971年にマレー人の地位向上を図るための「ブミプトラ(土地の子)政策」を始めた。これはマジョリティに対する一種のアファーマティブ・アクション(差別撤廃措置)で、マレー人は国立大学に優先的に入学でき、公務員の採用でも優遇された(最近まで中国系市民は警察官になれなかった)。企業の設立や租税制度でもマレー系に便宜が与えられ、欧米からは「民族差別政策」と批判されているが、マレー人が政治的多数派である以上、この大きな既得権の撤廃は困難とされる。
このブミプトラ政策の結果、マレーシアでは政治と経済が分離し、経済的な実権を握る中国系やインド系のマイノリティが事業を進めるためには、政治的な実権を握るマレー人の実力者(スルタンの一族やエリート)にリベートを支払う習慣が定着した。ロウが20代で「世紀の金融詐欺」を成功させた背景には、マレーシアのこうした特殊性がある。