「学校に行かない子」は
「勉強をやめた子」ではない
東京の出版社で雑誌やウェブ媒体の編集に携わったのち、2011年に駐在員との結婚がきっかけで台湾へ移住。現地のデジタルマーケティング企業で約6年間、日系企業の台湾進出をサポートする。台湾での妊娠出産、離婚、6年間のシングルマザー生活を経て、台湾人と再婚。独立して2019年に日本語・繁体字中国語でのコンテンツ制作を行う草月藤編集有限公司を設立。オードリー・タンからカルチャー界隈まで、生活者目線で取材し続けるライター・編集者としても活動中。著書に『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」』(KADOKAWA)、『まだ誰も見たことのない「未来」の話をしよう』(SBクリエイティブ)など。Voicy「近藤弥生子の、聴く《心跳台湾》」を定期的に配信中
田中 その通りだと思います。私も元不登校生でしたが、日本では「学校に行っていない」=「勉強をやめた子」という固定観念がものすごく強いんです。
今、日本は、不登校の生徒が24万人いて(※)、過去最多です。
※2022年10月27日公表の文部科学省「令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」によると、2021年度における小中学生の不登校数は24万4940人。毎年増加の傾向にある
それだけいると、もはや珍しいケースとは言えませんよね。学校に行かなくても学んでいる子はたくさんいます。それなのにその規模の子どもたちを包括するようなオルタナティブとなる教育がありません。
ですから、台湾の自主学習のように、「既存のカリキュラムを学校で受けなくても、学ぶことは可能なんだ」という発想は、今の日本にこそ必要かもしれません。
日本の「不登校」という表現は、非常によくないですよね。学校に行かずに家で学ぶことを「ホームスクーリング(homeschooling)」と言うこともありますが、リーさんの言う自主学習ともやっぱり違う気がします。
日本では「独学」がちょっとしたブームですが、これとはまた違ったニュアンスなのでしょうか。
近藤 独学は、それを勧める人たちによってさまざまな定義がなされていると思いますが、個人的な印象としては、目的を遂げる手段として学ぶ、というイメージです。それももちろん、大切なのですが、自主学習は、自己分析も含め「自分が今、本当に何をやりたいか」を勘案したうえで、自分の人生を見据えて、自分の学びのカリキュラムを、自分で組み立てていく。そのようなイメージでしょうか。
田中 なるほど。独学の機運の高まりは、これまでの日本の教育カリキュラムに限界がきていることの表れだと思うんです。そういう意味でも、やはり、自主学習という観点は、これからの日本の教育の参考になりそうです。
近藤さんが以前に書かれた『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」 自分、そして世界との和解』(KADOKAWA)内で、学校へ行かないという選択をしたオードリーさんに対し、「何で君だけが行かなくていいの? 僕だって本当は行きたくないのに」と周囲から責められるエピソードが紹介されていました。
私も「みんな我慢して学校へ行っているのに、あなただけ行かなくていいなんて、ずるい」とよく言われました。その時に思ったのは、そして、今も思うのは、「みんなが我慢して通わなければならない学校は、なくてもいいのではないか」ということです。
現在の一般的な学校は、明治以後、日本が発展していく段階にあって、西洋から多くを学び、必死につくってきた学校システムの流れを汲んでいるのだと思います。みんなががんばり、そして日本を強くしたいという気持ちが、いつしか、「こうあらねばならぬ」と、それに従わない他人を許せない場になってしまった。
もちろん大多数の子どもたちはそこにフィットしているので、既存の学校は必要なものです。他方で、24万人の子どもたちが不登校という現実があり、我慢しながら学校へ行っている子たちも含めると、「今の学校が合わない」と感じている子どもは、もっといるはずです。社会で「ダイバーシティ」がうたわれているのに、教育業界ではなかなかダイバーシティが進んでいない印象です。
近藤 リーさんが、オードリーさんに合うような学校を探していた時に、ある児童哲学クラブで子どもたちと話していると、このような意見が出たんです。