テレビ・ネットで「日本のウォーレン・バフェット」と話題! 1936年(昭和11年)、兵庫県の貧しい農家に4人兄弟の末っ子として生まれた。高校を出してもらってから、ペットショップに就職。そこでお客だった証券会社の役員と株の話をするようになった。そして19歳のとき、4つの銘柄を買ったことが株式投資の始まりだった。あれから68年、バブル崩壊では10億円あった資産が2億円にまで減った。しかし今、資産は18億円まで増え、月6億円を売買しながら、デイトレーダーとして日々相場に挑んでいる。隠しごとなしに日常生活から投資法まで全部書いた話題の書『87歳、現役トレーダー シゲルさんの教え 資産18億円を築いた「投資術」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものをお送りする。

【資産18億円を築いた87歳、現役トレーダーが明かす】バブル崩壊と阪神淡路大震災写真:川瀬典子

キャッシュを残して
おくことの大切さ

本能的に「現金は持っておかないとあかんな」と思っていたので、バブルの崩壊時にはある程度、キャッシュを残していたことは幸いしました。

退場して二度と株の世界に戻ってこない投資家仲間がいたなか、10億円あった資産を大きく減らしたとはいえ、2億円もあれば仕事をしなくても生活できます。

それからしばらくは片手間に投資をしながら、いろいろと遊び回りました。夫婦でスイスにも行きましたね。

阪神・淡路大震災で被災

そしてバブル崩壊の傷が癒えないまま、さらなるショックを受けたのが、阪神・淡路大震災です。1995年1月、神戸を最大震度7の激震が襲いました。

6434人もの方が亡くなったのですが、なかでも私の住む神戸市東灘区は最も甚大な被害を受けました。

当時、私はマンションの1階に住んでいました。雀荘を売り渡した後も麻雀は好きでしたから、その前日も麻雀をして帰ってきて、いつもと変わらずに寝ていました。

玄関がつぶれ窓から逃げる

そうしたら朝5時46分、ドーンと寝床から突き上げられたと思ったら大きく揺れ、あれよあれよという間に玄関部分がつぶれてしまいました。

阪神・淡路大震災では、マンションやビルの1階部分が倒壊・損傷するケースがあちこちで見られたのですが、玄関がつぶれたとなると、逃げる場所はベランダに面した窓しかありません。

「急いで逃げなあかん!」と取るものもとりあえず、女房と2人で窓から逃げ出しました。

2人とも着の身着のまま、裸足で早朝の神戸の街を歩きました。途中で見かねた街の人からスリッパをもらいましたが、もう二度と味わいたくない経験です。

株に身が入らない原因

震災前から私の自宅に残っているものといえば、目覚まし時計1つしかありません。私は当時から株の売買記録をすべてノートに記録していたのですが、その記録もすべてなくなってしまいました。

私はわずか5年ほどの間に、バブル崩壊阪神・淡路大震災という、人生でもそう味わうことがないような逆境を経験したわけです。

加えてその地震では、それまで私が世話になっていた菱光証券(現・三菱UFJモルガン・スタンレー証券)の社員も亡くなってしまいました。あれはつらかったですね。

その後しばらくの間、株に身が入らなくなった大きな原因でもあります。

資産18億円でも
住むのは普通のマンション

私が住んでいたマンションは取り壊され、震災の2年後、同じ土地に新しく建てられたマンションをあらためて購入しました。

震災後に土地分のお金は返ってきましたが、上物代は別でしたから大損害です。

とくに豪華なわけでも広いわけでもない普通のマンションですが、駅も公園も川も近く、立地が気に入っているので、女房と2人でいまも住み続けています。

※本稿は、『87歳、現役トレーダー シゲルさんの教え 資産18億円を築いた「投資術」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。