文化庁の文化遺産オンラインより「蒙古襲来絵詞」戦地に向かう鎌倉武士たち(文化庁文化遺産オンライン「蒙古襲来絵詞」より)

トラブルが起きて裁判に臨む際、現代ならば成文の法律がある。だが、源頼朝が1185年に東国に打ち立てた武家政権は、先例の積み重ねをもとに判決がくだされる慣習法の社会だった。1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んで破れると(承久の乱)、西日本に広がる上皇方の所領3000ヶ所に鎌倉方の力が及ぶようになる。こうして全国的な統治体制が求められる中、1232年に制定されたのが、武家を対象とする日本初の成文法「御成敗式目」だった。ときの執権北条泰時は、承久の乱で幕府軍を率いて京都に攻め上った総大将。泰時にとって、まさに乱の総仕上げと言えるだろう。本稿は、佐藤雄基『御成敗式目』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

御成敗式目に先立つ9年前に
地頭の行動を規制する定めを発布

 承久の乱の2年後、1223年(貞応2年)の「新補率法」(編集部注/新たに補任された地頭の取り分の比率を定めた)は、収穫前の6月に朝廷が官宣旨(公文書の一種)として発布し、7月に幕府はそれを施行している。御成敗式目に先立つこと9年前、式目よりも先に「有名な法」になったのは、この新補率法だった。

 鎌倉幕府の地頭は、謀叛人の所領没収などを契機にして、元の「職」が地頭職に切り替えられたものである。荘園領主への年貢納入などに関しては、元の「職」の権利義務を引き継ぐことが大原則だった。

 だが、承久の乱後、畿内・西国に大量の地頭が生まれ、多くの混乱が生じた。とりわけ、元の所職の得分が少ない場合、武士たちが困ってしまって、他の収益を得ようとして非法を行うことが問題化していた。そこで、彼らが非法を行わないように、承久の乱後の新地頭たちが一定の収益を得られるように定めたのだ、と官宣旨は述べている。

 新補率法の内容は、(1)田畠11町(1町の面積は約1ヘクタール)のうち1町は地頭分とし、(2)1段(1町の10分の1の面積)ごとに加徴米(一定の年貢以外に徴収する米)5升(1升は約1.8リットル)の徴収を認めていた。この宣旨を「施行」する関東御教書(鎌倉幕府が発給した文書)をみると、(1)(2)以外にも、(3)山野河海からの収益は、「折中」の法に従って、地頭と荘園領主・国司とで半々にすること、(4)犯罪者への財産刑による収益は、地頭が3分の1、荘園領主・国司が3分の2とすることなどを定め、また、(5)寺社は基本的には荘園領主の支配下にあり、地頭が「氏寺・氏社」を私的に支配することは認めるが、ほかは先例に従うこと、(6)公文・田所・案主・惣追捕使などの荘園現地の役人ポストについて、場所ごとに設置状況が多様で、一概にはいえないが、基本的には先例に従うこと、などが定められていた。

 このうち、鎌倉幕府が独自に付け加えた(3)山野河海、(4)財産刑の収益に関する2つの規定は、その後の中世社会に大きな影響を及ぼしていく。

 まず(4)についてみていこう。中世には、警察業務を担ったからといって、その給料が税金から支払われていたわけではない。警察業務を担う専門の役人(惣追捕使など)が設定される場合もあったが、そもそもそうした役人が設定されていない所領もあり、その場合は一般の荘官などが警察行為を行わなければならない。