そのような状況のもと、犯罪者の財産を没収したり、罰金を徴収してこれらを収入としたりすることが、犯罪を取り締まることのインセンティブになった。しかし、それはしばしば警察権の乱用につながった。荘園年貢などのように明確に配分ルールが定められたものと異なり、臨時収入である財産刑・罰金は地頭にとって権益拡大の切り口だったためである。新補率法では、軽犯罪への罰金のような日常的なレベルの警察業務でさえも、地頭と荘園領主の荘園権益をめぐる争いの中で、荘園制における権益の一つとなった。
さらに1231年(寛喜3年)に幕府は「盗賊」への罰金刑の基準を定め、盗品の価値が「銭百文もしくは二百文」の軽罪は、盗品の価値の2倍を罰金、「三百文以上」の重犯罪には、犯人の身柄に処罰を加え(中世には犯罪者を奴隷とすることも一般的だった)、その財産も没収してよいが、親類や妻子、所従には罪を及ぼさないこととしていた。幕府以外の荘園領主や在地においても、この幕府法が参照されていた。地域ごとに慣行として犯罪者からの罰金徴収などが行われていたにせよ、新補率法やそれを前提にした幕府法が、罰金刑を社会に定着させ、処罰の相場観を形成していたのである。
(3)の山野河海や検断(警察業務)に関する権益に関しても、それまで荘園制の中で明確な位置づけを得ないでいたが、新補率法によって制度的な位置づけを得た。山野河海の権益に関して、折半するというルールは、在地社会にも広がり、地域レベルでの紛争にも適用されていく。
御成敗式目の7年前の法令で
誘拐や人身売買が禁じられた
式目が「有名な法」になる「地ならし」をしたものに、新補率法とともに、1225年(嘉禄元年)の「嘉禄の新制」を挙げることができる。新制とは、平安時代以来、代替わりや天災に際して、朝廷が政治改革のために発した法令であり、「徳政」すなわち良い政治を意味していた。儒教的な天人相関説(自然現象と人間の行為は対応関係にあるとする説)の影響のもと、良い政治を行えば、天変地異も収まると信じられていたからである。内容は贅沢禁止や身分秩序の回復など多様であるが、状況に応じて変わる。