未曾有の大飢饉をおさめるために
朝廷も幕府も政治改革を志向した
佐藤雄基 著
御成敗式目がつくられた1232年(貞永元年)当時、日本列島は歴史的な大飢饉に襲われていた。後世「日本国の人口の3分の1が死に絶えた」と語り継がれた寛喜の大飢饉である。
寛喜という年号は、1229年に飢饉を理由にして安貞より改元されたが、翌年も長雨と冷夏となり、1231年には大飢饉となって、京中は飢え死にした人びとの死体が腐臭を放つ状況であったという。30年代末までその影響は残り続けた。また、年貢の納入などが大打撃を蒙る中で、地頭と荘園領主などの間で荘園権益をめぐる紛争が激化し、幕府法廷における訴訟も増えた。ある意味で承久の乱よりも深刻な危機だった。
このとき朝廷で政権を担ったのは九条道家である。将軍九条頼経の父親である道家は、京と鎌倉にまたがって大きな政治的な影響力を行使していた。1231年(寛喜3年)、道家のもとで朝廷は「寛喜の新制」を発している。神事・仏事の興行と寺社修造、朝廷公事、贅沢の禁止、身分に応じた服装の規定、警察・治安維持の強化などの内容を持ち、飢饉に対応して政治改革を行う姿勢が示されていた。
朝廷の新制に先立って北条泰時は幕府に仕える人びとに贅沢の禁制を出していたし、続く御成敗式目は、第一条に神社、第二条に寺院の修復を掲げており、明らかに「新制」の形式が意識されていた。1156年(保元元年)の保元の乱後の保元新制によって記録所が設置されたように、訴訟制度を改革して、社会秩序を本来あるべき姿に戻すこともまた新制の眼目だったことに注意したい。式目は裁判の基準を示して「理非」に基づく公正な裁判を強調するという点においても、まさしく「新制」であり、徳政だったのである。
式目制定の翌年、1233年(天福元年)には道家は「徳政奏状」を天皇に提出し、式目と同じく「理非」に基づく裁判を政治改革の眼目に挙げている。社会的な危機に対応して、朝廷と幕府が連携して政治改革を行うことは、鎌倉時代の大きな特徴だったが、式目はまさにその一環だった。