朝廷による「嘉禄の新制」を遵守するよう幕府は諸国御家人に命令し、誘拐(「勾引」)と人身売買が禁止されている。誘拐や人身売買の禁止は御成敗式目には規定がみえない。これらは「嘉禄の新制」で禁止されており、内容が重複するからだろう。こうして朝廷の新制を取り込むかたちで、武家法のシステムがつくられた。新補率法とこの「嘉禄の新制」が、武家法の出発点であるといえるだろう。のちに式目が有名になってしまった結果、これらは忘れられていくが、決して式目から武家法が始まったわけではない。

 地頭・御家人たちは、荘園現地において新制を根拠にして誘拐や人身売買を取り締まり、財産刑を科し、自分の権益としていた。新補率法にせよ嘉禄の新制にせよ、法が出て、それが周知されたからといって実効性を持つわけではない。それによって権益を得ることのできる地頭・御家人たちがその法を運用しようとした結果、社会の中で定着して、実際に周知のものになっていくというプロセスを見落とすことはできない。さらに幕府は朝廷の新制を実行するだけではなく、自ら新制を出すようになっていく。御成敗式目自体が幕府による「新制」という側面を持っていた。いよいよ1232年の式目の制定をみていくことにしたい。

朝廷が定めた古来からの律令があるのに
あえて武家に向けた法を定めた理由とは

 執権北条泰時は御成敗式目を制定するとともに、式目制定の事情について京都にいる弟の北条重時に書き送っている。重時は、鎌倉幕府が京都に代理人として置いた六波羅探題である。

 泰時は重時のほうから朝廷関係者に釈明するように求めている。このときの泰時の手紙が2通伝わっており、式目を理解するうえで重要な手掛かりになる。2通とも若干の漢字交じりの仮名書きで、式目や幕府法を集めた書物に収められ、現在に伝わっている。鎌倉幕府・室町幕府の役人たちにとって、式目制定の趣旨を伝える泰時の書状が式目とともに重んじられていたのである。立法者が法の制定意図を書状にしたためて他者に説明するということ自体、前近代日本の法の歴史において他に例をみない稀有な出来事だった。

 泰時の1通目の書状(8月8日付)は、式目を一部送り届けるとともに、律令法があるにもかかわらず、式目を制定した理由を述べたものである。現代語訳を示す。