人びとの訴えを裁くとき、もっぱら律令格式の法文に従って、裁判をするべきなのですが、田舎には律令のことをだいたいでも知っている者は、千人万人に一人でさえもいないのです。犯してしまえばたちまちに罰せられることが分かりきっている盗人・夜討のような罪でさえも企て、破滅してしまう者がたくさんいます。

 まして法令の中身を知らない者が罪の意識もなくしでかしてしまってきたことを、裁判のときに律令格式の法文に準拠して(幕府が)判断するのであれば、(その者からすれば)捕らえるための落とし穴のある山に入って、知らずして穴に落ちてしまうようなものでしょう。

 このためでしょうか、大将殿(源頼朝)の時代には、律令格式に準拠して裁判することなどありませんでした。代々の将軍の時代もまたそうしたことはなかったので、今日でもその先例を手本としてまねているのです。

 武士たちが法を知らなければ非法を犯してしまうから、武士たちに従わせる法を定めたという論理になっている。もちろん律令法は存在するが、武士たちのほとんどが律令法を知らず、幕府も頼朝の時代以来、慣習をもとにして裁判を行ってきたので、改めて成文法をつくり、武士たちに周知させたい、と述べている。泰時は続けてこう述べる。

 関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露して、この意図を心得させてください。とりあえず(式条を)書き写して、守護所(・地頭)には個別に配って、各国内の地頭・御家人たちに言い含めるようしてください。この式条に漏れたことがありましたら、追って書き加えるつもりです。あなかしこ。

 泰時が重時に対して、西国の守護に写しを配布して、よく周知するようにと伝えていることにも注目したい。武士たちが法を知らないために罪を犯してしまうことを恐れているという泰時の発言もこれに関わる。

 しばしば御成敗式目は武士の権利を保護するための法であると論じられてきた。しかし、まずこの式目の目的は、武士たちに非法を起こさせないことを目的としていたことに注意したい。そのためにこそ武士たちを「言い含め」て教化していくことが必要だったのであり、式目は、承久の乱後における武士非法の統制、「言い含める」法の系譜を引くものだった。中世の法として周知徹底を目指すのは例外的であり、そうしなければならないという危機意識があったのである。