「徳の高い者には高い位を、功績の多い者には報奨を」

 つまり、高い地位に昇格させるのは、あくまでも「人格」を伴った者であり、すばらしい業績を上げた者の労苦には、金銭などで報いるべきだ、と言うのです。

 現在の企業では、そのリーダーである経営者の選任にあたって、「徳」つまり「人格」はあまり顧みられず、その能力や功績だけをもってCEOなどの幹部が任命されています。さらには先に述べたように、高額の報酬がインセンティブとして与えられています。

 つまり、「人格者」よりも、功績に直結する「才覚」の持ち主のほうが、リーダーにふさわしいと、ビジネス界では考えられているのです。

リーダーには「高潔な人格」が必要

 しかし本来、多くの人々を率いるリーダーとは、報酬のためではなく、集団のためという使命感をもって、自己犠牲を払うことも厭わない高潔な「人格」をもっていなければならないはずです。事業が成功し、地位と名声、財産をかちえたとしても、それが集団にとって善きことかどうかをよく考え、自分の欲望を抑制できるような強い「克己心」や、その成果を社会に還元することに心からの喜びを覚える「利他の心」を備えた、すばらしい「人格者」でなければならないのです。

 資本主義社会の黎明期は、まさにそのような考え方が広く共有されていました。皆さんもご存じのとおり、資本主義はキリスト教の社会、特に倫理的な教えに厳しい、プロテスタントの社会から生まれています。初期の資本主義の担い手は、敬虔なプロテスタントの人々でした。著名なドイツの社会科学者であるマックス・ウェーバーによれば、彼らはキリストの教える隣人愛を貫くために、労働を尊び、生活は質素にして、産業活動で得た利益は、社会のために生かすことをモットーとしていました。

 そのため、企業のリーダーである経営者は、公明正大な方法で利益を追求し、あくまでも社会の発展に役立つことが求められていました。つまり「世のため人のため」ということが、初期資本主義を担った、彼らプロテスタントの倫理規範であり、その高い倫理観故に、資本主義経済が急速に発展したと言えるのです。

 皮肉なことに、その初期資本主義発展の原動力であった倫理観は、経済発展とともに希薄になりました。経営者が企業経営をする目的は、いつの間にか「自分だけよければいい」という利己的なものに堕していきました。インサイダー取引をテーマとした映画「ウォール街」の中には、「貪欲は善であり、資本主義のエンジンだ」とうそぶく企業買収家が登場するそうです。そのような私利私欲に満ちた経営者が後を絶たないのです。

(本原稿は『経営――稲盛和夫、原点を語る』から一部抜粋したものです)