一方、「部員Aのミスで試合で負けたから外周を走らされた」は完全にAを戦犯として設定し、他の部員のヘイトがそこに向かいやすい仕組みとなっている。「外周を走らされた」は青春の思い出になりにくく、ただ「Aによってもたらされた苦行」として認識される。

 反感やヘイトというのは、立場のより弱い相手に向かいやすい性質があるためである。前述の例えで言うなら、外周を命じる監督にではなく、その原因を作った部員Aにその他の部員のヘイトが向かいやすい。こちらは連帯責任がネガティブに機能するケースである。

 いずれにせよ、こうした連帯責任が適用されるのは学校なら主に部活動においてであり、「そもそもそれが妙だからやめたいし、扱い方を少しでも誤ればパワハラやいじめにつながるから、やっぱり”連帯責任”はもうやめないか――」といった意見が出てきたのは、いかにも現代的であるように感じた。

 連帯責任は、昭和的なしごき、すなわち現代でいうパワハラ的な文脈で用いられることが多かったため、「過去の負の風習はおしまいにしよう」という観点から、連帯責任反対の声が挙がったわけである。

連帯責任ではなく
過ちをくり返させないため?

 ただし、日大アメフト部の件に関しては、繰り返しになるが、「連帯責任によって廃部を決定する」のではなく、「過ちを繰り返させないために廃部を決定する」と考える人もいるため、どのような過程で「廃部」が主張されていたのか、本件に関して人の意見を聞く際は、注意深く見極める必要がある。

 前述の通り「連帯責任」に良い思い出を持っている人もいるだろうし、集団に緊張感を持たせて効率よく率いる手段として「連帯責任」が用いられる場合もあるであろう。いい面・悪い面があるのが連帯責任だが、日大アメフト部の違法薬物問題により、「連帯責任」に関する議論が世間で一層深まっていることは確かである。

 日大アメフト部に関して、近く定まっていくであろう今後の方針は、次代の新たなスタンダードとなるはずである。