また、これまで見てきたように古代人が西北に黄泉国(よみのくに=死者の国)があると考えていたことを踏まえ、大和は西北にあたる出雲に黄泉国があると考えていたのではないだろうか。

ヤマト政権にとって重要な意味を持っていた“出雲の平定”

 一方、大和の政治的な権威に対し、宗教的な霊力を持つ世界として出雲を想定したと唱えたのが松前健氏である。たしかに昨今、出雲から銅鐸などが大量に発見されていることを考えれば、出雲には一大宗教勢力が築かれていた可能性も否定できない。この巨大な宗教勢力、文化を保持していた出雲の平定は大和の念願であり、それをなしえたとき、ヤマト政権の王権が確立したと考えられていたという意見もある。

 そんな出雲を大和の政権が重んじていたことは様々な点からうかがえる。

 ヤマト政権は、出雲のオオクニヌシ神の分身、オオモノヌシ神を三輪山(みわやま)に祀った。出雲を平定したのちも、出雲固有の祭祀を重んじたともいわれ、出雲国造(くにのみやつこ)就任の際の、火継(ひつぎ)式にそれをみることができるともいわれる。

 そのほかにもたとえば『古事記』では、ヤマタノオロチ伝説や国譲りなど、出雲に関する神話が数多く語られる(『日本書紀』ではあまり見当たらない)。これについて三浦佑之氏は、天皇大権を説く『古事記』が出雲をヤマト政権の巨大な対立者とみなし、それを打ち倒すことでゆるぎのないヤマト政権が成立したことを語るため、出雲の神々の物語が必要だったとしている。

 一方、出雲人にとっての大和とはどのような位置づけだったのだろうか。『出雲国風土記』を見てみると、天皇に関する伝承がほとんどなく、在地性の強さがいわれている。さらに、三浦氏は出雲にとって朝廷とは自分たちの上に立ち、自分たちを支配する国という認識を持っていたとも指摘している。

 実際、『日本書紀』の一書にはオオクニヌシの国譲りの記事のなかで、「政治は天孫に、神事はオオナモチ命(オオクニヌシ神)が司る」と分担を示している。