さてそんなふうに『源氏物語』を読み聞かされた一条天皇は、

「この人は日本紀(『日本書紀』などの歴史書)を読んでいるようだ。実に学識がある」

 と仰せになった。それを、左衛門の内侍と呼ばれる内裏女房が小耳に挟んで、「えらく学問を鼻にかけているんですって」と殿上人などに言い触らし、紫式部に“日本紀の御局”とあだ名を付けた。

 それを紫式部は、

「お笑いぐさだわ。自分の実家の侍女の前ですら遠慮しているのに、宮中なんかで学識をひけらかすわけないじゃない」

 と、これまた、皮肉を書いています。

 さらに、『源氏物語』が彰子中宮の御前にあるのを見た道長が、いつものように冗談などを言うついでに、梅の実の下に置かれた紙に、

“すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ”(あなたは好き者という評判だから、見る人は手折らないで済ますまい)

 と書いて紫式部に寄越しました。酸き物(酸っぱい物)と好き者を掛けたわけです。

 エッチなことを書く作家は、自身もエッチに違いない……そんな思い込みをする人は今も時折見かけますが、たとえエッチであるにせよ、「自分ともエッチなことをしてくれるだろう」という発想に飛ぶというのは、なんとも滑稽な話です。しかしそんな人間が昔もいたんですね。

 続いて日記は、道長が夜、紫式部のいる局の戸を叩いたものの、恐ろしくてそのまま夜を明かしたと記しています。が、南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈』の紫式部の項には“御堂関白道長妾云々”とあり、この時代、女房として仕える女性が、主人筋の男と性的関係を結ばされることが多いことを考慮すれば、紫式部が道長の愛人であったことは確実であろうと私は思っています。

 いずれにしても、政治文化の第一人者である彼らに、『源氏物語』を語らせることで、紫式部は『源氏物語』の権威付けとPRをしています。日記が公開を前提としていたかはともかく、それを記録し、後世に伝えることに意味があったのです。

 現代でも、映画等をインフルエンサーたちに先行公開して、その感想をPRに使うという宣伝方法がありますが、紫式部は千年以上も前にそうした手法を先取りしていたわけです。