藤原道長のイラストPhoto:PIXTA

紫式部は『紫式部日記』において、源氏物語の“メイキング”を残している。そこには物語の製本事情から時代の権力者や当代一のインテリを利用した物語の権威付けやPRの様子などが詳細に綴られているのだ。本稿は、大塚ひかり『やばい源氏物語』(ポプラ社)の一部を抜粋・編集したものです。

『源氏物語』のメイキングが
『紫式部日記』に記述されていた

 この物語が作られた状況、そして読者たちについて触れたいと思います。

『源氏物語』の成立年代が分かるのは、『紫式部日記』に、物語の冊子作りのことなどが、敦成親王(後一条天皇)の誕生記事と共に描かれているからです。

 紙や墨・筆の支給、清書など、『源氏物語』の制作が彰子サロンを挙げてのプロジェクトであったというのも、『紫式部日記』の記述から判断されることです。

 紫式部は、夜が明けると真っ先に彰子の御前に伺候して、向かい合わせになって、色とりどりの紙を選び整え、物語の原本を添えては、あちこちに書写を依頼する手紙を書いて配った、と記しています。一方では、書写したものを製本することを仕事に明かし暮らした、とも。

 その様子を見た彰子の父・道長は、

「どこの子持ちがこの寒いのに、こんなことをなさっているの」

 と、娘の彰子中宮に申し上げるものの、上等の薄様(薄く漉いた鳥の子紙)や、筆や墨、硯まで持参して中宮に差し上げる。それを中宮は紫式部に下賜される。

『源氏物語』は、彰子サロンを挙げてのプロジェクトであり、紫式部はそのチーフリーダーであったわけです。

 紫式部は、物語の原本を実家から取り寄せて局(自分の部屋)に隠しておいたのを、彰子の御前に伺候している隙に、道長がこっそりやって来て、探し出して皆、“内侍の督の殿”(彰子の妹の姸子)に献上してしまったとも記しています。そのため、まずまずという程度に書き直しておいた本は皆紛失してしまって、気がかりな評判を取ったことだろう、と。

 ここから、『源氏物語』には、清書したもの、その原本、実家にあった原本など、さまざまなバージョンの本があったことがうかがえるのです。

 このように紫式部が『源氏物語』の「メイキング」とも言える顛末を日記に残していることは興味深いことです。

 娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子の後見役として大貴族が繁栄していた当時、天皇(東宮)が、娘のもとにお越しになるよう、手っ取り早く言えばセックスしてもらえるように、サロンを盛り上げることは大貴族にとって大きな仕事でした。