他の妃よりも、天皇が娘のもとを訪れてくれるよう、そのサロンを楽しく盛り立てる。才色兼備の女たちが雇われたのもそのためで、紫式部も彰子の家庭教師としてスカウトされました。

 一方、同じ一条天皇の妻の定子サロンでは、清少納言が男顔負けの才知で活躍していた。

 彰子が一条天皇の第二皇子(彰子にとっては第一子)を生んだ時には、すでに定子は故人とはいえ、一条天皇にはほかにも妻がいる。また、清少納言は『枕草子』を書いて評判になっており、定子サロンをなつかしむ声もあった中(『栄花物語』巻第七)、一つには彰子サロンを盤石にするため、『源氏物語』の作成から製本がプロジェクトとして組まれたわけです。

 その、サロンを挙げての物語作りとPRのパトロンが彰子とその父・道長であり、実質的な最高責任者が紫式部でした。

 彼女は物語を作るだけでなく、メイキングを記録し、一足先に物語を読んだ「インフルエンサー」とも言うべき有名人たちの、物語の感想をも日記に書き残しています。

平安時代から行われていた
インフルエンサーを利用した“PR”

 紫式部が、「『源氏物語』を読んだ」としているインフルエンサーは、三人。

 当代一のインテリといわれた藤原公任、一条天皇、言わずと知れた最高権力者の道長です。

 紫式部は、公任が、

“あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ”(すみません、このあたりに若紫はおいででしょうか)

 と、声を掛けてきたとして、「源氏に似ている人もいないのに、その妻(若紫=紫の上)がどうしているものですか」と、皮肉な思いを書き記しています。

 また、一条天皇が、『源氏物語』を人に読ませては聞いていた、と。当時の物語は黙読だけでなく、このように人に音読させて楽しむものであったことも、この記述からは浮き彫りになります。

 国宝『源氏物語絵巻』にも、宇治十帖の中の君が、浮舟の心を慰めようと、女房に物語を読ませ、浮舟がその物語を聞きながら、物語とセットになっている絵を見ている場面が描かれています(「東屋」巻)。