江戸時代中期の
「国民」負担率は28.9%
さて、江戸時代の一般的な人々の税負担は実際のところどうであったのだろうか。「五公五民」といえば、収入(収穫)の半分が年貢として取られていた、ということを指すが、この表現も教科書からは消えつつあるのが実態である。
「ごまの油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」
このような重税感は江戸時代イメージの常であったが、例えば「慶安のお触書」は、江戸時代の農民の重い税負担を表現したものだとされ、かつての教科書にはほぼ必ず登場したが、この記述も江戸時代研究が進むにつれて、現在の教科書からは削除の方向性が強くなっている。
江戸時代は大開発の時代であった。信長、秀吉、家康という戦国の三英傑の時代が終わり、幕藩体制が確立する17世紀初頭から、幕府や諸藩は新田開発にまい進した。農業生産の高進と、税収を増やすために各地で奨励されたもので、結果的に江戸時代最初の約100年という間に、全国の石高は倍になった。日本人の主食であるコメの生産が倍になったということは、その分だけ人口も倍になったというのが道理である。
戦国時代末期、日本の人口は約1500万人と推計されているが、幕府開闢から100年ほどが過ぎた元禄時代、つまりは「生類憐みの令」などで知られる五代綱吉の治世下の時、日本の人口はほぼ倍の2700万人~3000万人弱になったという推計が正しいようである。この約3000万人という人口は、明治時代まで多少の増減はあるものの、基本的に維持されるのである。
幕府や諸藩は新田開発を激しく奨励する見返りに、新たに開発された田畑には一定期間、年貢を見送るなどの措置を取った。現在でも、創業支援のために起業した会社には最初の数年間は特例などがある場合もあるが、新田への免税・減税措置はこのような短期間ではなく、場合によっては数十年という優遇もあった。
このような幕府などの政策は、江戸時代の人々の開墾精神を刺激し、彼らが続々と開発に参入したために、森林が過剰に切り開かれ、台風や長雨によって大きな洪水が起こり、幕府や諸藩は森林や河川域の過剰開発を防ぐ命令を出したほどであった。現在で言う環境破壊は、すでに17世紀から社会問題になっていたのである。
江戸時代中期、すなわち18世紀の初頭、五代将軍綱吉が死ぬや、六代将軍家宣、七代将軍家綱に仕えた新井白石は、その著書『折たく柴の記』の中で、この時代の実効税率を「二割八分九厘」と記述している。
つまり今風に言うと、28.9%がおおむね18世紀初頭の江戸時代の「国民」負担率だったということである。この記述は幕府財政の悪化を嘆く文脈の中に登場し、新井白石はこの実効税率をなんとか上昇させることで国庫を安定させることを目標とした。『折たく柴の記』は現代語訳が出版されているので、読んでみるとよい。
さて白石がこのように嘆いたのは、前掲の大開発が主な原因である。新田に対する優遇措置はあったにせよ、農地の拡大によって税収は増えると考えるのが普通である。しかし現在のような精緻な測量技術が全国に行き渡っていたわけではなく、また行政の徴税技術も未発達であった当時、幕府天領や全国の諸藩で、一元的に収穫を把握し、それに対し効率的な税を徴収するのは難しい状況であった。
加えて徳川の世になり、幕藩体制の安定のために幕府が儒教(朱子学)を官学として普及させたのが大きかった。儒教の世界観では、国を統治する支配者は高い徳を有するのであり、支配者には弱い者(女性や老人や子ども、病人など)を守る道徳的責任が強く課される、とされた。よってみだりに権力者が権威を振りかざして、被支配階級から搾取するのは「徳のある者がするべきでない行為」とされ、武士の道に反するという道徳観が出来上がったのである。
つまり、新田開発により収穫が増えているということは、当然幕府は把握しているものの、庶民の努力によって開発した新田などを隅々まで調査したうえで、そこに重い税金をかけて取り立てるのは、「支配者としてあるまじき行為」として認知されていたきらいがある。よって新田からの増収があっても、その部分は検地の際、意図的に見逃されたり、暗黙の了解として全部を課税の対象にしなかったり、などといういわゆる「おめこぼし」が多く存在していたのである。