税負担において
歴史的な重税時代
このような寛容な幕府の姿勢は、むろん、それだけの財政的裏付けもあったからである。幕府は、関ヶ原の役の戦後処理において西軍大名の所領を没収し、諸大名を配置転換させたうえで広大な天領を保有するに至った。また2回に及ぶ大坂の陣で豊臣を滅ぼしたのち、当時の経済的要衝であった京、大坂とその周辺といった上方の支配体制を盤石とした。
それ以外にも、幕府は外国貿易をほとんど独占し、甲州や佐渡、石見などといった鉱山を独占的に開発、運営することにより、巨額の黒字を計上するに至った。現代風に言えば、幕府は超優良な国営企業を複数所有して、輸出入企業さえも独占していたのである。このような「打ち出の小づち」という裏付けがあったからこそ、庶民に対して厳しい徴税姿勢を取らなくて済んだともいえる。
これにより幕府は諸藩を圧倒する富裕となり、おおむね18世紀に入るまで積極財政を繰り返した。幕府の開祖、徳川家康をまつる日光東照宮への歴代将軍一行の参拝(日光社参)は、徳川の武威、威光を諸藩や庶民に知らしめる目的もあり、惜しみなく盛大に行われた。また参勤交代制度によって街道筋の宿場町は発展し、官主体の消費によって、道路と物流が大きく整備されることになった。
幕府(政府)が惜しみなく金を使うことによって、その需要に応える民間部門が急速に成長し、これがのち、明治以降の日本近代資本主義につながるブルジョワジー(資本家)の勃興に貢献したのである。
もっともこのような幕府の放漫財政は長く続かず、18世紀までに金を使いすぎた幕府の国庫は空になり、慢性的な赤字状況となって、幕府財政の改善を企図するいわゆる「三大改革」が実行される。
しかしいったん儒教的精神によって、庶民に対する寛容な姿勢を維持してきた幕府が、財政が悪いからといって180度転換して大増税を行ったとなると、徳川の威信は低下し、一揆や打ちこわしが激増するなどして社会不安を引き起こしかねない。
幕府は年貢の計算方式の変更や追加の検地などの諸改革を行うものの、幕府財政が徳川三代(家康、秀忠、家光)の時代の、潤沢な状況に戻ることは幕府滅亡までついぞなかった。
さらに時代が経るとともに、金鉱山からの産出量が過剰採掘で減少し、また、当時世界的に吹き荒れた天候不順(小氷期)や火山の噴火による農業生産の不振、相次ぐ大地震の復旧費、江戸や大坂などの大都市に流入する人々への対策、大火によって焼失した建物修繕費用なども増大し、国庫の悪化にさらなる追い打ちをかけることになる。こうして幕藩体制は徐々にだが確実に疲労し、徳川の権勢の低下とともに時代は明治維新に向かっていく。
といっても、少なくとも幕府直轄の天領において、税負担が「五公五民」つまり収入の50%が年貢、という状況は、例外こそあるものの、基本的に起きづらかったといえる。現在の「大増税」を江戸時代になぞらえるのは、このような事実からいっても間違いである。もちろん、江戸時代に全国一律の社会福祉や近代医療はないし、インフラは比べようもなく劣悪である。近代的な人権意識は育まれず、人々は非科学的な迷信に重きを置いていた。
しかし税負担という意味でいえば、確実に現代は江戸時代よりも過酷であり、よって日本史上まれに見る庶民生活の困苦が具現化しているといえよう。まさに歴史的な重税の時代を我々は生きているのである。
(作家/令和政治社会問題研究所理事長/日本ペンクラブ正会員 古谷経衡)