教育は短期で結果が出るものではない
育むべきは「状況を見極める力」

森林  これまで高校野球を見てきて、「次の一勝」とか、「めざせ甲子園」とか、「負けたら終わり」とか、そうしたフレーズばかりを繰り返すのは高校野球の嫌なところだと、ずっと思っていました。

おふたり

 身体の状態や課題は、選手ごとに違うのに、皆で集まり、同じウォーミングアップをして、同じ練習をする。めざすは「勝利」のみ――。筑波大学にいたとき、ほかのスポーツをしていた同級生に「どうして高校野球ってそうなの?」といみじくも指摘され、答えに詰まってしまったこともあります。

 こうした既成概念に違和感を抱きながらも、高校野球の世界の中にいて、自分もその既成概念に染まりかけていました。でも筑波大学でそのことに気付かされて、中から「変えたい」という思いが加速したのです。

 高校野球でゲームの勝敗だけにこだわるのは、沈みかかったタイタニックの船中で、ポーカーに熱中しているようなものです。ポーカーの勝敗よりも、船の状況を見極めることが、その人たちにとっても、乗員全員にとっても、大切なはずです。

 教育というのは短期で結果が出るものではありません。学生が社会人になったときに「船の状況を見極めようとする感覚や力」を育むきっかけを授けられるか。教育にたずさわるのであれば、船の中のポーカーに熱中させるのではなく、そうしたことに力を注ぐべきだと思うのです。

神武 今のお話にはとても賛同します。一方で、ちょっと違った視点もあるかなと思う部分もあります。

「個」を大切にして成長することも大事ですが、「チーム」で成長することも大事だと思うんです。

 例えば、大学院の研究においては、それぞれ学生は能力や興味も違うため、おのおの、研究テーマが異なります。もし、「研究テーマが異なるので個別にやればいい。集まって議論する必要もないよね」ということになれば、研究室のようなものは不要となり、解散した方が良いということになります。

 もちろん、そういうやりかたもあるかもしれません。でも、実際には、たとえ個々で研究をしていても、仲間が周囲にいることで、自身の研究の状態を客観視するようなことができるようになります。例えば、論文執筆において「裏付けと共に主張を論じる」といった基本的な「お作法」は、どのような研究をしていたとしても同じですから、皆で一緒にやることが共通の学びにつながりますし、ほかの人の研究を理解して議論するような機会に恵まれれば、自分とはテーマが違っても、その議論から得ることは少なからずありますし、成長につながります。

 当然、高校生と大学院生を同一に語ることはできません。しかし、どのような立場であっても、チームで取り組むことの利点は、ひとりだとがんばれなくても、皆とならがんばれることもあります。調子の悪い人も、皆と一緒に取り組めば、触発されて調子を取り戻すこともあります。

 もちろん、ひとりのほうががんばれるということもあります。スポーツにおいても、学習においても、仕事においても、「個」か「チーム」かというのは、どちらも良い部分があり、どちらも悪い部分もある。教育者は常にこのバランスを考え、見極めていかなければならないと思います。

すべての世代に共通して大切なことは
「自分で考えてやりきる」というマインド

おふたり

森林 おっしゃる通り、「個」か「チーム」かは、単純な二択ではありません。

 例えば、冬の時期の練習は寒いですが、皆ではげまし合って寒さを乗り越える、時にはそうした一体感も大事です。慶應高校というのは、他校と比べて比較的、自由放任な風土ではありますが、それでも、監督が決定したり、ティーチングで内容を詰め込んだりすることも、もちろんあります。

 神武さんの研究室でも、ていねいに教えたり、皆で一緒に取り組んだりすることもあれば、あえて突き放すこともあると思うんです。組織の風土と指導者の価値観によって、「個」と「チーム」のどこに重心を置くかは変わるものだと思うのです。

神武 そこがおもしろいところですよね。今年やってうまくいったことでも、来年はメンバーが変わってしまう。相手の状況、置かれている状況、トレンドも変わるので、同じことが通用するわけではない。そういう意味では、必ずしも再現性はないわけです。

 そうなると、それまでの経験値に頼って一方的に指導するだけでは不十分で、もっとも大切なことは、学生と接するその時々の対話であり、行動だと思います。小学校だろうと大学院だろうと、野球だろうと研究だろうと、そこはやはり同じですよね。

 彼らに日々伝えているのは、「自分で考えて、行動して、責任を取れるようになろう」ということで、そこは年齢関係なく、同じことを伝えています。

森林 同感です。私も、教師として接する小学生であれ、監督として接する高校生であれ、伝えたいのは「自分で自分の人生を生き、自分の幸せを追求しようよ」ということです。

 その手助けをするのが私たちの役目。彼ら、彼女らのその後の人生のために、自分で考える習慣をつけてほしい、他人に良い影響を与えられる人になってほしい、そう思って接しています。

神武 何かトラブルが起きたときに他人のせいにする小学生もいれば、研究の議論をしているときに「本当は、このテーマの研究がもっともやりたかったというわけではないんです」と言い出す大学院生もいて、いずれも根本的な問題は「自分で考えて、行動して、責任を取る」という意識が足りていなかったということが多い気がします。

 この意識を持つことはとても大切で、かなり備わっている小学生もいますし、十分でない大学院生もいます。こうした意識を身につける機会を指導者が意図的につくり出すことは、何かしらの知識や技能を獲得してもらうこと以上に、大切だと思います。小学校と大学院に同時にたずさわったことでこうしたことがよくわかり、非常に勉強になりました。

「サイエンティスト」と「アーティスト」
教育者はどちらの要素も忘れてはならない

森林 筑波大学で、「『コーチング』は『サイエンス』だが『アート』でもある」という言葉を聞いて、なるほどと思ったことがありました。

 今は何でも数値化して分析できます。エビデンスはそれはそれとして重要なのですが、今、目の前の選手に何を言うべきか、あるいは、放っておくべきか、というのは、科学的な最適解が存在するわけではありません。そこには、芸術的な感性や直観も必要になってきます。

 つまり、教育者は「サイエンティスト」と「アーティスト」の両方でなくてはならない。とても難しいことですが、どちらも楽しめるということでもあるんですよね。

神武 例えば、大事な試合で、「目の前の勝利のために最適だと思われる選手を起用する」か、「その人やチームの成長のためにここは温存する」か、という選択を迫られたときに、森林さんはどのように判断しているのですか。

森林 目の前の一瞬を取るのではなく、その人の将来を取る自分でありたいと思っています。「勝利」か「育成」かは、二元的に対立して見えますが、私は、ある程度までは両立できると信じているんです。

 去年の甲子園(※全国高等学校野球選手権大会)ではちょうどバランスが取れていました。1人のピッチャーに負担がかからないように計画的に回し、同時に優勝という果実も得ることができた。正反対のようでも、両立をめざそうと思えばできるんだということを示すことができた。ただ、究極の場面でどう判断すれば良いかは、その場に立たされないとわからないですね。
 

おふたり、神武先生

神武 同じ状況でも、その時々で最適な判断は変わるし、同じ結果にはならない、ということですね。

 ミスしたことや厳しい指導が、トラウマになる人と、自分の強みになる人がいると思うんです。私は学生時代に所属していた大学の研究室で、何人かが同じような失敗をしても、なぜか自分だけが皆の前で指導教員に叱られるということがけっこうありました。

 あるとき、その指導教員が「本当は皆に厳しく言うべきことだが、君は受け止められると思い、代表して叱っている」と個別に言ってくださったのです(笑)。その時は「なぜ、僕だけ?」と思いましたが、今、自分が指導する立場になって、その意味がわかるようになりました。

 指導する側も、指導される側のことを何とか理解しようとしながら工夫する必要がありますね。その判断というのは本当難しい。森林さんは、100人近い野球部員に対して、そのあたりはどのように指導しているのでしょうか。

「教育は無力」を自覚した上で
きっかけづくりに注力する

森林 教育の基本セオリーは、「褒めるのは皆の前で、叱るのは個別に」です。ただ、個別にやると、100人に100回、同じことを言わなくてはなりません。たくさんの生徒がいる部活やクラスでは、ひとりのミスを、皆が自分事として捉えるように活用しないと、成り立たないときもあるんです。

 ですから、たとえば、部活で連携プレーの判断ミスについて原因を話すとき、その部員ひとりに言ってはいますが、皆に自分ごとと思ってほしくて共有しているのだ、ということが伝わるように、言い方や表現などを工夫するように努力はしています。

 ひとりの失敗を皆の失敗にする。責めるのではなく共有する。逆にいいプレーがあれば、「自分もそこに関わっていると思っていいんだ」と捉えてもらうという意味もあります。「この人なら皆の前で言っても大丈夫」という見極めは、やはり必要になってきますが、そこは慎重にですね。

神武 伝えたいことが学生の心にどのくらい響いているのか、いつも悩むところではあるんですよね。皆に伝えているつもりでも、「オレ、関係ないし」と思っているかもしれない(笑)。それで直接、個別に伝えてようやく「初めて聞いた」という顔をされることもある。他人の行動から学べる勘のいい小学生もいれば、何度も紙に書いて伝えてもわかってもらえない社会人もいるので、なかなか一朝一夕では伝わらないものです。

森林 「こうやったらうまくいく」という方法論はなくて、教育というのは「うまくいかないな」の繰り返しですよね。

 5回伝えて、5回目で「初耳だ」という顔をされたのであれば、その5回目が彼にとっての聞くべきタイミングだったのです。だから、「そのタイミングがついに来た」ということを喜べばいいのだと思います。

おふたり、森林さん笑顔

 人によってタイミングはバラバラなので、その人にとってのタイミングがいつ来るかをじっと待ってみるのです。ただ、そのタイミングが来ないまま卒業してしまうことも多い(笑)。

神武 私はJAXAのエンジニアから慶應大学の教員になるときに、数多くのIT分野の世界的な研究者や起業家を指導してきた相磯秀夫先生(※)から、「教育で大切なことは我慢だよ」と、お言葉をいただいたのですが、本当にそうだなと思いますね。
※工学者、慶應義塾大学名誉教授。慶應SFC(慶應義塾湘南藤沢キャンパス)生みの親のひとり

森林 目の前の1年では変わらないけれど、長い目で見れば変わっていたということもありますからね。本人も実感がないまま、いつの間にか自身の中に浸透していて、それが湧き水のように時間をかけて出てくる。「今、ベンチャーをやっています」と報告しに来てくれる卒業生など、その後の成長がわかったりすると、ああ無駄ではなかったんだなと、うれしい気持ちになります。

 でも、教育って基本は無力ですよ。「オレが指導したんだ」とか「オレが伝えたんだ」とか、そんなに簡単なことではないです。目の前にいる間に、その人を変えてやろうなんてことはおこがましいんですよ。何かきっかけを与えることができれば、それだけで十分なのです。