開かれた仮想の「街」に、顧客体験の可能性を探る
――御社では、リアルのプロダクトやそれがつくり出す体験だけでなく、仮想空間における体験づくりにも取り組まれています。
豊口 さまざまな取り組みがあった中、初めて実際の顧客に向けてデザインしたのが、メタバースを活用したバーチャルショールーム「ニッパーとあそぼう サウンドパーク」です。
――「ニッパー」はVictorブランドの犬のマークですね。仮想空間づくりで、ニッパーを中心に据えたのはどのような狙いでしょうか。
豊口 目的の一つは、メタバースに関する私たちの知見を高めることでしたが、Victorというプロダクトブランドと、ブランドアイコンである「ニッパー」の関係性を周知することも大きな目的でした。
特にイヤホンなどの主な顧客である20代、30代には、犬の「ニッパー」とブランド名「Victor」のつながりについて認知度が低く、そのことが課題としてありました。また、国内でVictorのブランドに再度光を当てていこうとする動きとも連動して、この企画につながったのです。
――それを三越伊勢丹ホールディングスが運営する「REV WORLDS(レヴ ワールズ)」内の仮想都市で実施されたのは、なぜですか。
豊口 自社ECサイトやオウンドメディアは私たちも持っていますが、「街」の中に「ニッパー」を置くことで、より幅広い人たちの目に触れるチャンスが欲しかった。それにぴったりだったのが、仮想都市のコミュニケーションプラットフォーム「REV WORLDS」であり、そこにあるバーチャル新宿でした。
最初はバーチャル新宿のALTAに「ニッパー」の広告を出したいと考え、三越伊勢丹さんに相談したところ、二つ返事でお話が進みました。そこで1年ほどやってみた結果、広告だけでは何も起きないが、リンクボタンがあれば必ず入ってくる人がいると分かったのです。それなら仮想空間のショールームを作ってみようと考え実現したのが「ニッパーとあそぼう サウンドパーク」です。その少し前、2021年に提案したバーチャルショールームのプロトタイプの評判が良く、そこからのつながりもありました。
――実際のユーザーの反応はどうでしたか。
豊口 REV WORLDSは21年から23年6月までのダウンロード数が8万回以上に上り、2000〜3000人のアクティブユーザーがいます。サウンドパーク単独では月に1100人が訪問、延べ閲覧数は2800(23年6月末まで)です。
コンテンツには各種キャンペーンやタイムトライアルなどゲーム性を組み込み、滞在時間やチャットのコメントを見ながら、反応の薄いコンテンツは外し、伝わりづらいところは分かりやすく改善、人気のあるものは手厚くアップデートするなど、改良を重ねてきました。
こうした取り組みの結果、最初は約1分だった1人当たりの平均滞在時間が3分まで伸び、ターゲットとしていた20代以下の女性がユーザー全体の6割を占めるようになりました。アクセスする人のほとんどが、サブアバターとしてREV WORLDS内を連れ歩ける「小さいニッパー」やデジタルグッズをダウンロードしてくれています。
他のバーチャル体験もそうですが、一貫して考えているのは「何をしたらお客さまが喜んでくれるか」ということです。いったん自分たちがベストと思うものを出してみて、駄目だったところはどんどん変えていく。最初から完成はさせないし、しようと思ってもできません。
――他のバーチャル体験とは違う、このプロジェクトならではの苦労や工夫などはありましたか。
豊口 これまで手掛けた仮想体験の多くは、目の前で操作して体験してもらうので、こちらで体験者を誘導できました。でも、体験者がそれぞれのタイミングで動き回る「街」ではそれができません。だから細部に至るまで緻密に想定して、シナリオを作る必要がありました。
それから、一つハードルとなったのが、「ニッパー」の3Dデータが今までなかったことです。知的財産部で管理してきた立体の「犬の原器」は、石こうでできた白い無垢の塑像です。おなじみの陶器の像も、目鼻は手描きで1体ずつ違うので、今回はそれを3Dデータとして定義するところから始めました。今後、動いたりほえたりするニッパーを作るなら、声や振る舞いに関する、より詳細なキャラクター設定も必要になるかもしれません。
――開かれた場だからこそ、あらゆるシーンに対応するための厳密な設定が必要なんですね。
豊口 その意味では、閉じられたオウンドメディアの方が楽なことは分かっています。でも、やはり開かれた場ならではの可能性を感じることは多かったですね。他の目的でこのバーチャル新宿に入ってきた人も、街中に巨大なニッパーが座っていれば目に入りますから、興味を持って立ち寄ってくれる。別の目的地へ行く際に直行せず、回り道をしてわざわざニッパーの前を通る人もいました。ニッパーが街の風景の一部となった今、三越伊勢丹さんも出展終了を惜しんでくれています。
個人的には、仮想の街での顧客行動を観察することで、リアルな街中の広告やショールームにも役立つことがありそうだと感じています。街中で見た広告が記憶に残り、その後の行動に影響する……。これはリアルでもバーチャルでも起こり得ることです。一方、バーチャルだからこそ可能な体験もあるし、リアルに求められる新しい役割もありますから、両方で相乗効果を生み出すことができたらと思います。