紫式部の時代の『平安京』
現代の京都と少しずれていた
まずは、都市の名前だが、紫式部の時代は「平安京」である。「京都」というのは、帝都の一般名詞であって、固有名詞化したのは、明治になってからだ。平安時代は「みやこ」と呼ばれたり、古代中国の都にちなんで「洛陽」と言われたりもした。
次に場所についてだが、京都は平安京より北東にずれている。平安京は、東西南北を現在の寺町通、天神川通(このふたつは現在の道路と微妙にずれている)、一条通、九条通に囲まれていた。
南北のメインストリートである朱雀大路は、現在の千本通であって、九条大路の羅城門(羅生門ではない)から二条駅前にあった朱雀門まで幅84メートルの道が延びていた。千本通は25メートル、現在の御池通でも幅50メートルだから、飛行場の滑走路のようなものだ。
一条大路から九条大路まで長さ5キロで、標高差は25メートルくらいだから、1キロで5メートルという北から南へ向けてのゆるやかな下り坂だ。
平安京の南西の部分は桂川が氾濫する低湿地のため、碁盤の目の道路は完成されなかったようだ。それに対して、北東部は水はけが良く快適なので、町並みは紫式部の時代から徐々に北東へ向かって開発が進んでいった。
それでも現在で言えば、皇居・永田町・霞が関の機能を併せた大内裏は、朱雀門の北側の東西2キロ、南北3キロほどの長方形の区域にあった。そのうち政務の中心に使われた大極殿は、千本丸太町交差点の真ん中がその跡地だ。
一方、天皇の「生活の場」である内裏は大極殿の北東の一角であり、大極殿から内裏の中心である紫宸殿までは300メートル余りである。この紫宸殿は応接間のようなもので、生活の中心は隣接する清涼殿であり、たとえば、花山天皇が藤原道兼によって連れ出されたのはここだ。そして、弘徽殿、藤壺、桐壺などの跡には、それぞれ掲示板がある。
この辺りは住宅密集地になっており、見ることができる遺跡はない。
ただし、内裏が焼亡したりすると、天皇は貴族の邸宅に仮住まいし、これを里内裏と呼んだ。一条天皇の時は何度も内裏が焼亡し、一条院(一条通南・大宮通東で和菓子屋塩芳軒の辺り)が三度にわたり里内裏となり、東三条殿(※)、枇杷殿(京都御所南側)も使われた。
この大内裏に大極殿があったのは、平安時代後期の1177年までである。その後は、内裏の紫宸殿が代わりに儀式にも使われた。そして、承久の変直後の1227年には内裏もここを離れ、室町時代になると、現在の京都御所の場所に固定された。