中日ドラゴンズの監督として、特に印象深いのは星野仙一と落合博満だろう。この対照的な名将たちをデータ・動作解析で支えた元ドラゴンズ選手がいた。彼の仕事ぶりと星野、落合の真の姿を紹介しよう。※本稿は、喜瀬雅則著『中日ドラゴンズが優勝できなくても愛される理由』(光文社新書)を一部抜粋・編集したものです。
星野「俺の命令が聞けねえのか」
スコアラーとコーチ補佐の“二刀流”へ
現役時代、ヒット3本の片貝義明(1972年、中日からドラフト2位。引退後、中日でスコアラーを務めていた)に、星野仙一が「コーチをやれ」と命じたのは1990年だった。
「僕のコーチ像っていうのは、実績もないんでね、なかなか難しい。コミュニケーションのツールは持っていましたよ。でも実績がないから『イヤだ』って断ったんですよ」
ただ、星野は頑固だ。一度決めたら、もう引かない。
「お前は、一生懸命仕事をやってるから、コーチになれ」
片貝のユニホームも、背番号もすでに準備されていたのだという。
「いや、僕、なりませんよ」
かぶりを振り続ける片貝は、とうとう監督室に呼ばれた。
「俺の命令が聞けねえのか」
星野が、烈火のごとく怒鳴り上げた。ただその後が星野らしい、事態の“落とし方”になっている。
「俺は、おめえのために言ってるんじゃねえんだ。コーチになる、給料が上がる。家族のために言ってんだ。馬鹿野郎。着ろ!」
片貝は、その心遣いがたまらなく嬉しかったのだという。
「そういう人なんです。殴るだとか、蹴るだとか、そういうのが前面に出てるけど、面倒見がすごくいいんです。(監督)1期目の時は、特にそうでしたね。トレードに出す時でも気を使って、辞める時はみんな、評論家から何から全部紹介して。だからみんな、慕っていた部分もあるんですよ」
以来、片貝は試合前は打撃コーチ補佐、試合中はチーム付きのスコアラーとして、実に多忙な“二刀流”の日々を送った。試合データの分析は、ナイターの翌日、つまり試合前の午前中から球場に来て、練習前までに資料としてまとめた。
「僕らも契約なんです。1年契約、選手と一緒ですよ。だから、悪いと切られちゃうじゃないですか。これができる、もうちょっと半歩先、それをやっていかないと持たないわけですよ。自分の職業、自分の立場を確保しない限りは、誰でもできるんだったらそれで終わっちゃうじゃないですか。若いやつにいつでも代えられちゃうんで、その危機感はずっと持ってやっていました」
コーチとの兼業は6年間。その間に高木守道が退任し、1995年オフ、2度目の監督に就任した星野から、思いも寄らぬ提案を受ける。
「ちょっと、研究してみてくれんか」
データ分析をコンピュータでやる。それを片貝に作らせようという、仰天の指令だった。