女性関係、弟・石原裕次郎とのタッグ、政治的なかけひき、数々の周囲の人を驚かせた冒険、政財界、文化人との交流、そしてその時々の思いが書かれている。

 これは、現在からみると、まさに「ベルエポック」であった昭和という時代を通り過ぎた風雲児の自伝であって、そこには経済が拡大し、日本が世界第2位の経済大国に上り詰めた時代の、しかもそのような社会を作るのに貢献した一人の人間の生きざま、考え方が現れている。昭和の時代を作った人物の自伝としてとても興味深い。

 豊かさをめざし、華やかに生き、まさに「大きな人」として生きた石原氏と対極にあるのが妻の生き方だったといえるだろう。

自慢話を多く語った芥川賞作家は
余命3カ月宣告にひどく動揺

 ところで、井上ひさしは「すべてのエッセイは自慢話である」と語り、阿刀田高も「極論ではあろうが“人は自分自身について語るとき、それはつねに自慢話である”と私はこう放言する立場である。卑下したり失敗を語ったり、マイナス面を言うときも、これは裏返しの自慢であることが多い」と書いている。

 先に挙げた石原の自伝は、まさに昭和の男のすがすがしいほどの自慢話としてとらえられるものだ。そう考えると、そこに書かれる活躍、失敗、苦悩のすべてがずば抜けた才能と活動力に恵まれた昭和の風雲児の自慢話にほかならない。ここでも、自慢をしなかった妻とは正反対の傾向がみられる。

 その石原慎太郎が死の直前に書いた「死への道程」という短いエッセイがある。そこには余命3カ月を告げられたときの出来事が素直に書かれている。

令和3年10月19日

 コロナ騒ぎに幻惑され反対する家族の反対を押しきり、このところ続いている腹痛の原因をしらべるためにあえてNTT病院に出向いて検査をうけた。相手の医師は、以前リキッドバイオプシーで膵臓の癌を指摘してくれた神田医師その人だった。

 あれは一目にも恐ろしい光景で、私も思わず息を飲んで今さらおいつくまいと覚悟しながら画面一面満天の星のように光り輝く映像を眺めながら、

「これで先生この後どれほどの命ですかね」

 質したら、即座にあっさりと

「まあ後三カ月くらいでしょうかね」

 宣告してくれたものだった。