妻と娘さんは、医師の石飛幸三先生の著書『「平穏死」のすすめ』(講談社文庫)に、たくさん付箋を貼ったものを持って、当院外来にお見えになりました。

「この本にあるような平穏死をお願いできますか?」

 本人とご家族の決断のもと、訪問診療が始まりました。訪問看護や訪問介護、訪問入浴など、チームを作って対応です。訪問入浴とは、浴槽を部屋へ持ち込んでお湯を張り、寝たまま入浴できる介護サービスです。

 自宅に帰ると、不思議なことが起こりました。暴れていたYさんが、暴れなくなりました。大声を上げる場面は少しありましたが、暴力的なことはまったく見られなくなっていました。

 声をかけると、返事が返ってくるようになりました。施設や病院にいる時には、家族が話しかけても、返事もなかったのです。

 私があいさつすれば、Yさんもあいさつを返してくれます。

 近衛兵だった、大尉だった、というような昔の話もしてくれました。

 食べられないはずのYさんが、奥さん手作りの流動食、ペースト食を食べるようになりました。それもたくさん。

 奥さんも、娘さんも、おおいに喜び、そして不思議がりました。病院や施設では、あれだけ何の反応もなかったのに、と。

 自宅に帰ると、食欲が出てきたり、痛みが軽くなったり、夜ぐっすり眠れるようになったり……ということは、しばしば経験します。暴れていた人(せん妄)が落ち着いたということもよく経験します。

 でも、返事もしなかった人が会話をするようになった、というのは、私たちにもはじめての経験でした。

 自宅ですごすことの素晴らしさを感じることができました。

食べたいものを食べて迎える最期
「平穏死」という選択

 じつは、妻と娘さんは、Yさんの自宅での療養が始まってから、ずっと息をひそめて、静かな環境を心がけていたそうです。

 自宅では、近所の小学生の通学のにぎやかな声、ご近所さんのあいさつの声、お勝手のカチャカチャいう音、掃除機の音、渡る風、家のにおい、天井のシミ、すべてひっくるめてお家なのですから、静かにする必要はないのですよ。

 いつもの音、いつものにおい、いつもの風がご自宅なのですよ。

 そうお話しすると、安心されました。