2022年10月1日。不世出のプロレスラー、アントニオ猪木が死んだ。プロレス界にとって、時代にとって、猪木とは何だったのか。『週刊プロレス』元編集長のターザン山本氏が、猪木の実像を振り返る。※本稿は『アントニオ猪木とは何だったのか』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
“猪木病”にかかった
元週プロ編集長の懐古
アントニオ猪木は死んだ。人間の世界に例外は存在しないことをあらためて思い知らされた瞬間である。あるプロレスファンは、その時点で拒食症におちいり体重が1カ月で17kgも落ちた。ウツも発症。
これは本当の話なのだ。そこまではいかなくても猪木ロスを味わったファンは多い。猪木が亡くなったのは令和4年10月1日だった。これから先、A・猪木はどんどん忘れ去られていく。それはもう間違いない事実である。昭和歌謡界の女王、美空ひばりが忘れ去られたようにだ。
もはや猪木はどこにもいない。存在しない。試合会場などで見聞きしてきたあの勇姿は2度と見ることはできないのだ。猪木不在の時間を我々はどうして生きていけばいいのか?今、まさしくそれが試されている。
「猪木について考えることがプロレスである」。この命題に沿ってもう一度、原点に戻る。つまり「猪木とは何か?」である。
それを言うなら猪木と出会ってしまったことで人生を狂わされてしまった。猪木より面白いことが他にあるとは想像できなくなってしまったのだ。猪木病という不治の病だ。
忘れられていく猪木という視点に立ったとき、欠かすことのできないことが2つある。1つは横浜港の大さん橋であり、もう1つは蔵前国技館だ。大さん橋は1957(昭和32)年、猪木、14歳のとき、猪木家がブラジルで一旗、上げるためさんとす丸で地球の裏側にある南米に向かって出港していったところだ。そのこと自体、猪木家がいかに山師の素質があったかという証拠である。11人兄弟で下から3番目だった猪木にその山師的性格が誰よりも強く受け継がれていた。
実際、猪木自身が「詐欺ほど面白いものはない」と語っていた。サプライズ、裏切り、一寸先は闇、ハプニング。猪木の常識は世間の非常識を地で行ってしまう世界だ。
日本、日本列島を離れたとき、そこで猪木少年が目にしたのは見渡す限り海、海、海。水平線しかない。最近、ひとり娘の寛子さんが「パパは海が大好きだったのよ」と告白している。
ライバル・ジャイアント馬場とは
チャンスの掴み方が違った
ジャイアント馬場は猪木より5歳上。新潟県三条市出身。内陸育ち、憧れの海を見ることなく育った。それもあってかハワイにマンションを買い、夕方になると浜辺に出て夕陽に映える波を見るのが趣味だった。
油絵をひとり楽しんでいた馬場。描いた絵はみんなその波だった。猪木と馬場に共通するものが海だったとは。海は時間があるようでない。絶対的ゼロ時間。それは虚無と永遠のことである。人間が死すべき存在と考えたとき、よりそのことは鮮明になってくる。猪木的虚無と永遠。馬場的虚無と永遠。
さんとす丸が太平洋を航海中、猪木があこがれ尊敬していた祖父が亡くなった。祖父が水葬されていくシーンを猪木は見ている。その祖父は孫の猪木少年に「男は世界で一番になれ」と言った。「たとえ乞食になっても世界一の乞食ならそれでいいじゃないか」と。