日プロの腐敗に勘づいていた
馬場と猪木の道が分かれた理由

 東京プロレスが無惨な結果に終わったあと猪木は日プロに復帰する。普通、日本の社会は後足で砂かけて出て行った人間を受け入れることはしない。それは日プロの首脳陣が馬場時代に限界が見えていたからだ。これからは馬場ではなく猪木に投資しようという読みと方向転換を見すえた話だ。

書影『アントニオ猪木とは何だったのか』(集英社新書)『アントニオ猪木とは何だったのか』(集英社新書)
入不二基義・香山リカ・水道橋博士・ターザン山本・松原隆一郎・夢枕獏・吉田豪 著

 そうはいっても圧倒的地位にいた馬場を無視することはできない。このジレンマの中で猪木は再び日プロを飛び出していく。1972(昭和47)年、28歳のときである。晴れて新日本プロレスを設立、旗揚げした。日プロのフロントはこの時点で何の展望もなく内部的にも腐敗していた。そのことは馬場も猪木と同じ気持ち、考えだった。

 だから猪木と馬場が組んで2人で新団体を作るという手もあった。だが猪木はそれをしなかった。馬場とはたもとを分かつことが猪木のゆるぎない信念。馬場もそれをわかっていたから1972年、秋、猪木に遅れる形で日プロを出て全日本プロレスを旗揚げした。

 猪木と馬場の対立時代はここからスタートしていったのだ。