力道山が死んだからこうなってしまった。誰もみんな力道山のことを忘れてしまっている。すでにいなかったことになっている。希代の英雄もそうなってしまうという非情さ。むなしさ。

 1966(昭和)年、猪木、23歳。日本プロレスを飛び出して東京プロレスを旗揚げした。あの巨大組織、一強プロレス団体の日プロに反旗をひるがえしたのだ。やることが早過ぎた。機は熟していない。でもそれをやってしまうのが猪木なのだ。もろくもというか悲惨というかあっけなく崩壊。無理、無謀であることははじめからわかっていたが、じゃあ、なぜ、猪木は東京プロレスをぶちあげたかである。

 力道山のことを忘れてしまっている人たちが、そのことで我が世の春を謳歌していることに対する反発心だ。業界的には猪木は日プロを裏切ったことになるが、猪木的には自分の方に正義があると信じていた。

 馬場は向こう側の人だ。向こう側の人は向こう側で生きればいい。俺はこちら側で生きる。それが猪木の主張となっていく。第一、どう転んでも猪木は馬場にはなれない。いや、ならない。馬場になったら猪木は猪木ではない。

 プロレス的には馬場は王道、猪木は覇道という言われ方をしてきた。向こう側とこちら側という考え方だ。その意味では猪木が猪木になるためには馬場はなくてはならない存在だったといえる。この関係性は猪木にとって必要なことだった。