また豊田青年会議所の関係者も認めるように、労働問題の解消には時間がかかります。ペップトークは、その準備期間を設けるための、急場しのぎの対応策です。「最幸」といった言葉が、単に「やってる感」を出すだけで、課題解決を先延ばしする方便とならないよう、警戒する必要があるでしょう。

企業や自治体が率先して
「最幸」を使う危険性

 もう一つ、筆者が注目したのが、行政が「最幸」を使っているケースです。山梨県が2012年に実施した観光振興策「『ビタミンやまなし 史上最幸の女子会』体験ツアー」を始め、自治体発の各種施策に盛り込まれる例は、枚挙にいとまがありません。

 神奈川県川崎市の市政方針などに登場するスローガン「最幸のまち かわさき」も、その一つ。福田紀彦市長が2013年に初当選して以降、「個人の幸せが最大限発揮できる」という意味合いで、「最幸」を採用し続けています。

 川崎市は待機児童対応を始め、生活の質の向上につながる施策を展開してきました。一方で、市内に住む外国人へのヘイトスピーチ対策などを巡り、その判断が必ずしも市民本位ではないと指摘し、市政方針との整合性を問う報道もみられます。

 自治体として、住民の福祉を大事にしようとする姿勢を否定するものではありません。しかし、幸せとは元来「心の奥底から自然と湧き出てくる情念」であると言えるでしょう。人によって、理想とする形も異なります。本質的に、第三者の意向によって規定できるものではないのです。

 にもかかわらず、企業や自治体など、強い影響力を持つ集団が、率先して「最幸」という概念を打ち出す。そのことにより、使用者が想定しない幸福の尺度を持つ人々が、疎外される恐れはないでしょうか。

「最幸」が一方的に持ち出されれば、言葉の宛先となる人々は、用いる側だけが満足する“お仕着せの感動”の犠牲となりかねません。その危うさを自覚した上で、個々の立場を越えて、誰もが幸せを実感できる社会を実現させていくべきだと思います。