殿様が優秀で身体も壮健
子だくさんの系譜だった島津家

 近世の島津家については、『「篤姫」と島津・徳川の五百年』(講談社文庫)で詳しく書いたが、「島津に暗君なし」といわれるように、殿様が優秀で身体も壮健、子だくさんの系譜だったので、大名から娘を奥方に、男子を養子にと申し込みが殺到した。

 幕末の名君で西郷隆盛を育てた島津斉彬の子は早世した者が多く、男系の子孫は残らなかった。

 斉彬の跡を継いだのは弟の久光ではなく、その長男の忠義が斉彬の養子となって島津宗家となり、最後の藩主でもあった。久光は当主とはならなかったが、国父と呼ばれていた。朝鮮王国での高宗に対する大院君みたいな立場だが、文久2年の政変まで江戸にも京都にも現れたことがなかったのは、殿様でもその世子でもあったことがないからだ。

 久光は維新後に家臣の西郷と大久保に裏切られ、政府では意見が通らず、廃藩置県までされて鹿児島にこもった。そこで明治天皇も自ら鹿児島に下向してご機嫌をとったくらいだが、その一環として、久光には玉里島津家と呼ばれる別家を立てさせ公爵とし、七男の忠済に継がせた。公爵二家というのはほかに徳川家があるが、これは徳川慶喜に田安家たちが継いだ宗家のほかに、別家を立てたものだ。

 しかも、それだけでなく、旧華族には島津姓が13家あった。日向佐土原藩主の島津家は独立大名だった分家だが、忠義の七男・久範が継ぎ、その子の久永が昭和天皇の皇女・貴子さんを夫人に迎えている。

 そのほかは男爵だが、徳川御三家に似たかたちで男系が断絶しないように設けた加治木、垂水、今和泉、重富の四家がある。このうち、今和泉家は天璋院篤姫の実家だが、久光の五男忠欽の次男隼彦が継いだ。

 重富家は久光が婿入りして継承していたが、宗家に戻ったので四男の珍彦が継いだ。珍彦の夫人は斉彬の娘なので、この系統にのみ斉彬の血統は引き継がれている。

 それ以外では、宮之城家、日置家、都城家は一族の家老家であるが、宮之城家は久光の次男である久治(図書)が婿養子になって継いだ。

 さらに、久光の五男の忠欽、忠義の五男の忠備、六男の忠弘もそれぞれ独立した男爵家を創設させてもらっている。