「私は、友人から『百舌の博士』と云われた位、百舌を落すのが上手だった」と言って、おとりのつくり方から実際のとらえ方などがことこまかに説明してあり、目で見るような気がする。百舌を「十疋見つければ、六七疋はきっと取れた」とあるのを読んで、よかったという気がするから妙である。

 いったいに、幼少のころは、ひとり人間にとっての神話の時代である。メルヘンの世界である。そのままが、詩であり、物語である。よけいな作業を加えなくとも、人の心を動かすようになっている。

 作家が幼年物語や少年少女物語を書くとたいていすぐれた作品になる。菊池寛はそういうことを知っていたのかどうかわからないが、書かないと言っておきながら、少年時代のことを、実に全体の4分の1の分量、原稿用紙にして50枚以上をあてている。書き出したら、とまらなくなったのであろうか。

 菊池寛は、その少年時代回顧の中でひょっと、ひとこと人生観をはさんでいる。

「よく少年時代の苦労はかまわない、晩年楽をすればいゝなどと云うが、しかし少年時代に感覚も感情もフレッシュであるとき、面白いことをすれば、老いて多少苦労をしてもいゝのではないかとも考えられると思う。少年時代に遂げられなかった望みなどいうものは、年が寄ってから償い得ないように思う」

 しみじみとした、心にしみることばである。同感される。

 そして「私は誰と相談しようもなかった。私の家庭は、ほかの日本の家庭にもよくあるように、生活にとって一番重大なことについては、黙々として何も云わない流儀だった」ということばで孤独をのべているのが哀切である。人間についての洞察がこの半自叙伝をただの自伝以上のものにしている。

具体的な数字と抑制した表現が
自分本位の自伝にならない秘訣

 こまかいことは記憶していない、ようなことを言うかと思うと、たいへん具体的な数字が出てくるのもおもしろい。

「上京当時、そば屋へ行くと、もりかけ3銭と書いてあった。それが、もり3銭かけ3銭と云う意味だとは分らなかった。私はもりかけと云うものがあるものだと思った。私は可なり長い間『もりかけを下さい』と云って註文していた。こんな場合そば屋では大抵かけをくれたものだ」