書影『人生の整理学 読まれる自分史を書く』『人生の整理学 読まれる自分史を書く』(イースト・プレス)
外山滋比古 著

 新婚早々、「名古屋へ下りて見物したとき、妻は私のために11円80銭で金縁の眼鏡を買ってくれた。そのときまで、銀か鉄の眼鏡をかけていたものと見える」

 盗みの疑いをかけられて第一高等学校を退学になるのは、菊池寛にとって、半生の最大事件であったが、事実を淡々とのべて、感情的なところがすこしも見られない。それだけにかえってつよい刺激を受ける。

 感情的、といえば、全体として、この自伝には、はげしい気持をあらわすことばはほとんど使われていない。

「私は黙々と郷里へ帰って結婚した。私の母がそのとき『もう2、3年独身でいてもえゝのに……』と、云った。私が、結婚すると金を送る方が疎かになりはしないかと怖れる母の心が見えたので、私はいやな気がした」と抑えた書き方をしている。

 知人が、菊池寛からもらった手紙をことわりもなしに、発表してしまった。それを知っても、やはり、「いやな気がした」としか書かない。こういうところだけでなく、全体として抑制のきいた文章が感銘をふかくする。

 作家として世に出てからの話は、芥川龍之介、久米正雄、川端康成といった名前が出てきて、それはそれなりにおもしろいけれども、幼少から青年へかけての回想にこもっていた潜熱のようなものが消えているのは、是非もないことだろうか。

文芸評論の大家・小林秀雄も
絶賛する「あるがまま」の筆致

 半自叙伝は、いい意味で、散文的である。思い入れや、文章的ポーズがなくて、すきっとしている。あるがままのはずはないのに、あるがままだと感じさせるところは天下一品だと思われる。

 小林秀雄はこう言っている。

「『半自叙伝』は作家の告白病から鮮やかに超脱している点で無類だと思う。……自己反省の手際などは見せず、見た事行った事をさっさと語ってくれる。楽天的であり、実践的であり、反省のための反省が皆無……」

「見た事行った事をさっさと語」る、のが散文である。自叙伝も、そういう散文で書かれれば、どんなにおもしろいものになるかということをわれわれに示しているのが、菊池寛「半自叙伝」である。

 自分史を書こうとするものは、まず、この「半自叙伝」を3回くらい味読する必要があるように思われる。自分史の古典だといっても決して過言ではない。