2つの会話を比較すると、はっきりとした違いがある。前者は脆弱性に全く触れられず、「完璧」に近いことが周囲の評価の対象になっていることがわかる。一種のステレオタイプ的な会話ではあるが、日本の学校でこうした会話がなされていることは想像に難くないだろう。

 ちなみにイタリアでは日本の同年代の会話と比較して、ポジティブなところだけではなくネガティブなところをさりげなく批判することもよくある。空気を読んだり顔色をうかがおうとする気持ちは薄い。ネガティブな感情に対する抵抗が少ないからである。

「スクールカースト」という
過酷すぎる階級制度

 話は少しそれるが、学校という特殊な空間についても言及しておきたい。学校はミクロな社会を形成しており、そこにはマクロな社会全体の断面が現れることがある。保護者もまた周囲の大人たちから影響を受け、欲望を模倣し、価値観や規範を子どもへと伝えている。すなわち、子どもたちは親だけでなく社会全体の大人たちから間接的に影響を受けて、学校という小さな社会の構成員となる。

 日本の学校空間には「スクールカースト」という奇妙な現象がある。学者たちからも指摘されているし、もはや一般的にも知られた言葉だろう。学校を社会の模型として解釈したとき、スクールカーストは極めて容赦ない階級制度だ。

 知らない読者のために簡単に説明しておくと、スクールカーストとはスクール(学校)におけるカースト(序列・派閥)である。運動や勉強の能力、モテるか否か、面白さや雰囲気などで「イケてる」かどうかが決まり、自身の評価や属するコミュニティが左右される。

 スクールカースト的な現象は、決して日本に限った話ではない。ただ、「集団内でのコミュニケーションのうまさ」で序列がつけられる点が、日本独特といえる。日本の学校空間では、集団コミュニケーションの出来具合で、周りの承認を得られてトップのカーストに「昇進」できる。

 とはいえ、集団コミュニケーションがうまい人はたいてい何かを「所有」しており、そこに価値が見出されている。運動神経、高いモテ度、ユーモア、親の社会的地位、家庭の金銭力……。

 こうしたものが一つもなければ「地味」扱いされる。それだけならまだよいが、存在価値すら認められず、無視されたりいじめの対象となることもある。一方、生徒たちは何かを所有している生徒たちのことを崇拝するようになる。スクールカーストは人間に対して条件つきの価値しか認めない、過酷な制度である。