昭和な大企業が株式市場にくらった制裁「コングロマリット・ディスカウント」とは?写真はイメージです Photo:PIXTA

1970~90年代、日本の製造業は「高品質」「信頼」「ハイテク」を武器に世界の頂点へと上り詰めた。しかし、行きすぎた多角経営により、多くの企業は足元をすくわれ、いまだ「失われた30年」から抜け出せずにいる。そうした日本にはびこる“悪しき企業マインド”とは?長年日本経営を研究し続けてきた、経営学者のウリケ・シェーデ氏の解説と共に紐解いていこう。※本稿は、ウリケ・シェーデ著、渡部典子訳『シン・日本の経営 悲観バイアスを排す』(日経BP 日本経済新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。

「メイド・イン・ジャパン」ブランドを
確立した高度経済成長期の日本

 日本は戦後、急成長する道を歩み始めた。1955年から1973年にかけての高度成長期、GDPの年平均成長率は10%だった。技術面で欧米に追いつくために、産業政策として日本の大企業が原材料や海外で発明された技術を輸入し、その技術を商業的に応用し、出来の良い最終製品を輸出できるようになることをめざした。日本の技術者は欧米に出張し、当初は鉄鋼、造船、化学などの産業で新しいスキルを習得した。この政策では大企業が主に2点に集中することを奨励していた。(1)主に技術の応用と漸進的イノベーション、(2)多角化による規模拡大と売上高の増大だ。

 1950年代、日本からの主要な輸出品は、絹とゼンマイ仕掛けのブリキ玩具だった。欧米では「メイド・イン・ジャパン」の表記は「安かろう、悪かろう」を連想させた。1960年代にアメリカで初めて日本車が販売されると、その小ささとすぐ錆びることについて、多くの冗談が飛び交った。このため、昭和の技術戦略は技術を獲得するだけでなく、製品の品質で追いつくために製造技術を獲得することも目的としていた。イノベーションの観点では、欧米から何かを取り入れ、それをより良くする漸進的な改良に専念する必要があったのだ。

 やがて企業は商品化のスキルを磨き、品質の向上とともに付加価値を高めることができた。多くの企業でカイゼンやものづくりの暗黙知が育まれ、日本製品の卓越した信頼性は世界的に評価されるようになった。

バブル崩壊によって露呈した
企業の3つの「行きすぎ」とは?

 1973年のオイルショック後、燃費がよく、小型で、優れた日本車は欧米でヒットした。その頃、ソニーとパナソニック(松下電器)などの電気機器メーカーが小型ラジオやより良いテレビで世界の消費者の心をつかみ、当然ながらウォークマンは最初の特大ヒット製品となった。

 当時の日本企業の経営陣は各方面から、利益ではなく売上高の増大を重視するように奨励されていた。政府は大企業を非常に優遇した。大企業は国内サプライヤーの大規模ネットワークの頂点にあり、大企業が成長すれば、それが中小企業にも波及していったからだ。