政府は大企業を手厚く支援し、一流大学の卒業生は大企業に入社した。銀行はコーポレートファイナンスの中心であり、喜んで大企業に融資をした。企業が成長する最も手っ取り早い方法は、より多くの事業に参入することだった。それはコア・コンピタンスを新分野に広げる形をとることもあったが、時間の経過とともに、まったく無関係の事業にも手を出す企業が増えていった。

 30年にわたる多角化を経て1980年代になると、日本の大企業は動きの鈍い巨大コングロマリットへと変貌を遂げていた。1980年代後半のバブル経済の間、大多数の企業が非戦略的な多角化に熱中していたことから、バブル崩壊によって3つの行きすぎが露呈した。多すぎる事業セグメント、多すぎる従業員、多すぎる融資である。このショックに対する最初の反応は、回復を期待して「様子見」をする戦略だった。失業と社会的な危機を回避するために、政府はこの慎重なやり方を支援した。

日本の「KAISHA」再興の
キーワードは「選択と集中」

 ところが、日本は回復するどころか、1998年に巨大な金融危機に見舞われた。銀行は金利を払えない企業に貸し渋りをせざるをえなくなり、企業倒産が相次いだ。また、企業はバブル期の行きすぎを片付ける「大掃除」への着手を迫られた。今世紀になるまで、企業の新しいスローガンは「選択と集中」だった。企業は事業の再集中のために、「中核」となる事業を特定、選択し、そこに経営資源を集中させる。関連性のない事業は閉鎖か売却によって撤退しなければならない。

 これは日本のKAISHAの再興の始まりだった。私の試算では、2000年から2006年までの選択と集中の第1波の際に、大企業500社の75%が、撤退、事業部門の売却、競合他社の非中核事業部門との合併などの活動の少なくとも1つに取り組んでいた。もっとも、後から考えてみると、ほとんどの企業は「低いところにぶら下がっている果実」、つまり、簡単に切り離せる非中核事業のみを売却しただけで、新しい戦略にピボットした企業は少なかった。