正直、このような光景は目新しいものではないだろう。母は同性の娘に、自分の実現できなかった夢やコンプレックスを投影することがある。その結果、母は娘を通して、人生の「生きなおし」を試みる。これは母娘問題でしばしば指摘される構造だ。

 たとえば自分の学歴コンプレックスから、娘に過剰な教育を施そうとしたり、あるいは麻友美のように、職業コンプレックスから娘の進路を決めたがったりする母親たちを、あなたも見たことがあるのではないだろうか。自分の人生経験から、母が娘に規範を強いることは、非常に普遍的な行為である。

自分で選んできたつもりが
母から“選ばされてきた”人生

 有名な翻訳家である伊都子の母は、娘にも自分と同じように生きるべきだという規範を与えてきた。そして伊都子は母のような職業人になれないことがコンプレックスだった。だが、「母に規範を与えられたことに、30代半ばを過ぎるまで自分は気づかなかった」と伊都子は語る。

「ねえ、知ってた?私の母親って、今の麻友美とそっくりおんなじ、ううん、麻友美をもっとヒステリックにした感じなの。私はずっとそれに気がつかなくて、なんでも自分で選んでやってる気になってたの。でもちがうのよ。全部あの人がそう仕向けていたの。私、そのことに今ごろになってようやく気づいたの。30も半ばになって、ようやくよ」
角田光代『銀の夜』

 母の規範にそもそも気がつかない。だから伊都子は、母の規範を手放すタイミングを持たない。母が自分にどういう規範を与えたのか、その言語化ができなければ、そもそも規範を手放しようがないのだ。

 母娘小説としての『銀の夜』の面白さはここにある。母から娘へ、規範は世代を超えて再生産される。だから母と娘の葛藤は、世代を超えて続いてしまう。しかし問題は、規範を与えることそのものではない。規範に気づかず、規範を手放すタイミングを持たないことが、母娘問題の本質なのだ。伊都子の場合は、もし友人の子育てを見ていなければ、規範の存在に永遠に気づかずにいたのかもしれない。