力士たちの野太い声が、合わさるだけでもテンションが上がるのに、「イチ、ニッ、サン」では太鼓まで叩たたかれるのだ。「ひぃ、ふぅのみッ、それ、ドンドコドン」である。

 綱をよる時、絶対に地面に接触させないのは、地の穢れをつけないためであり、黒星に重ねないためだと聞いたことがある。

 そして、新横綱の時には、全力士が紅白のハチマキをして、掛け声と太鼓の中でより合わせるのだから、それは賑やかで華やか。

 新横綱は、上がり座敷に多くの親方衆や関係者たちと座り、この光景を見ている。相撲人生で1回だけの綱打ち式である。一門が集って、自分のために綱を打つ光景は、身も引き締まるだろうし、どんなに幸せなことか。

攻守の“雲龍型”と
攻め一筋の“不知火型”

 こうしてより合わされた綱は、だいたい長さが5メートルほどで、重さは10キロ超になる。土俵入りの際は、化粧まわしもつけるので、20キロ近くになろう。できあがった綱は、腹回りには麻を多く入れて太く、背中に向かって少しずつ細くなっている。この細い部分が背中で雲龍型か不知火型のどちらかに結ばれる。

 上がり座敷で見ている新横綱は、大銀杏を結っている場合もある。化粧まわしの上にできたての綱を締め、土俵入りを習うからだろうか。

 直近の第72代横綱稀勢の里は、第62代の大乃国(現・芝田山親方)に、雲龍型を習っている。集った関係者や一門力士たちの前で、真っ白な綱をつけての土俵入り稽古。おそらく、力士になってよかったと思う瞬間ではないだろうか。

 雲龍型は背中で結ぶ綱の、結び目が1つである。不知火型は2つ。そのため、綱の長さは不知火型の方が長いという。

 2つの型は結び目だけではなく、土俵入りの所作も違う。

 雲龍型は「攻守兼務」を意味している。せり上がりで左手を脇腹に当て、右手を前方斜め下に伸ばす。脇腹に当ててガードしているかのような左手が「守り」の意味だ。伸ばした右手が「攻め」である。

 一方、不知火型は「攻め一筋」の意味を持っている。せり上がりの時、両手を大きく広げる攻めの所作、実に雄々しい。

 雲龍型は文久元(1861)年に、不知火型は文久3(1863)年に始まったとされ、今も変わることなく伝え継がれているのである。

 しかし、私が横綱審議委員だった時、当時の北の湖理事長が、「最近は左手を脇腹に当てず、すき間を作っている横綱もいる。これでは守りという意味をなさない」と憮然としたことがある。

 150余年も続く伝統を、何の畏れもなく我流に崩す。その思い上がりに、理事長は怒ったのだと思う。当然だ。恥を知れである。

 横綱は、最初にどちらかの型を決めて習うと、引退するまで変えられない。2つの型をやることはない。

 ところがある日、秋田に住む親戚から、私に電話がかかってきた。

「北の富士が不知火型をやったよ!見たよ!」

 私は秋田出身で、親戚や友人知人も多い。その親戚の者は巡業に行ったらしい。だが、北の富士は雲龍型であり、不知火型をやることはありえない。まったく、綱の結び目を見れば、区別がつくだろうに。

 ところが、興奮した声の内容に、胸がいっぱいになった。