病床に伏す玉の海の代わりに
“不知火型”に初挑戦した北の富士

 その電話がいつだったのか覚えていない。だが、後で調べると昭和46(1971)年の夏巡業のことだった。その巡業は二手に分かれており、北海道地域は出身者でもある横綱北の富士のチーム。もう一方は本州地域で、横綱玉の海のチームである。

 2人は「北玉時代」を築いている両雄で、ともに人気絶頂。2地域の人々は北の富士の雲龍型か、玉の海の不知火型か、どちらかを間近で見られるのだ。

 なのに何ということ、玉の海は虫垂炎のため、秋田巡業に出られなくなった。土俵入りを見られないと知り、秋田のファンはどれほどがっかりしただろう。

 ところが、北の富士は玉の海の代役として秋田に行き、横綱土俵入りを披露したのである。こう聞けば、普通は「玉の海は不知火だけど、北の富士は自分の雲龍を見せたのだろう」と思う。

 が、当然のことながら、玉の海チームが巡業に持ってきている綱は不知火型。これも当然ながら、玉の海の付き人たちは、不知火型の結び方しかできない。結び目が2つの方である。

 すると北の富士は、躊躇せずに、「いいよ、俺が不知火型をやるよ」と言ったそうだ。そして、やったこともない不知火型を、みごとに披露した。秋田のファンは、ありえないものを見たのである。

書影『大相撲の不思議3』(潮新書)『大相撲の不思議3』(潮新書)
内館牧子 著

 病床の玉の海も泣かんばかりに喜んだと聞く。そしてほどなく、虫垂炎の予後が悪く、わずか27歳の若さで亡くなった。

 北の富士はかつて、私に言ったことがある。

「こっちは還暦土俵入りまでやって、ヤツは27歳。理不尽だよ」

 還暦を迎えた元横綱は、赤い綱と赤い御幣をつけて記念の土俵入りをする。最も新しいのは、平成27(2015)年の第58代横綱千代の富士だ。露払いの日馬富士、太刀持ちの白鵬は白い綱姿である。若い2人の横綱を従え、勝負の世界で還暦まで生き抜いた姿。

 赤い綱は、その美しさと厳しさを語っていたと思う。