近年九州に出現し、農作物への影響が懸念されている特殊害虫ミカンコミバエ。日本での根絶作戦は1968年の奄美諸島で始まったが、個体数はなかなかゼロにならず、小笠原諸島では駆除に使う誘引剤に引き寄せられにくい個体が登場するなど、課題が続出した。そうした中、生態学者・伊藤嘉昭氏とミバエ専門家・岩橋統はいかにしてミカンコミバエ根絶の活路を見出したのか――。※本稿は、宮竹貴久『特殊害虫から日本を救え』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
官僚の結論ありきの対策会議
意見を無視された若手研究者たち
日本における最初のミカンコミバエ根絶事業の舞台は、1953年12月25日に日本に復帰した奄美諸島だった。
農林省は1968年9月からメチルオイゲノールによるミカンコミバエの根絶をはじめるにあたり、研究者である伊藤嘉昭に、その最初の対策会議に出席して意見を述べるよう指示した。
だが、まずは研究のための予算をつけて、敵であるミカンコミバエの生態を少なくとも1年は調べ、基礎的な研究の後に根絶事業をはじめるべきだ、とこの会議で主張した伊藤ら若手研究者の意見はまったく無視されてしまう。
このオスを消す技術(編集部注/オスだけを強烈に誘引する物質メチルオイゲノールと殺虫剤の合せ技で、一定地域のオスを全滅させる手法)は、マリアナ諸島のミカンコミバエを滅ぼした実績があった。農林省としては、海外とはいえ、すでに確立された技術なので、予算を獲得した後に、お墨付きをもらうために研究者も会議に出席させたのだろうと伊藤は振り返る。回顧録に「研究者たちは『念のために』(?)集められたにすぎなかった」と書いている(『虫を放して虫を滅ぼす』中公新書)。
さて、奄美諸島で最初に根絶を試みる場所に選ばれたのは喜界島だった。メチルオイゲノール97%と殺虫剤3%の混合液をしみ込ませた粗繊維で作った、縦横6センチのテックス板を、2ヘクタールあたり1枚の割合で月3回空から投下、住宅地では民家の樹木などに針金で吊り下げたり、野原に向かって放り投げたりした。さらにメチルオイゲノールと殺虫剤をしみ込ませた綿を入れた罠に捕まるミカンコミバエの数もモニタリングされた。
根本原因をかえりみることなく
行政機関の仕事は肥大の一途
1968年9月に作戦がはじまると、すぐに数は減り、約半年で島でミカンコミバエは捕まらなくなった。ところが1969年9月にミカンコミバエが捕まり、その数が増えてしまう。以降も1975年まで毎年、ミカンコミバエの数は一時的にゼロになるのだが、その後は罠にかかって増えるという事態が7年間も繰り返されたのである。
つまり、いつまで経っても喜界島のミカンコミバエはゼロにならなかった。ところがそれにもかかわらず、根絶を目指す地域の規模はどんどん大きくなり、奄美諸島全域で駆除作戦は展開された。